記憶の中にあるもの

あやまちの始まり



 誘ったのはオレの方からだとアイツは言った。しかし、当のオレにはそんな記憶はまったく残っていない。
 記憶はない。本当にない。それだというのに、今の状態はいったいどうしたことだろうか……。
「お前から言ったんだ、私のことが好きだと」
「いやだから、記憶にねえっての」
「お前の記憶になくとも、私の記憶の中にはしっかりと残っている」
「だーかーらー。オレは知らねえの。いくらアンタの記憶に残っていようが、オレの方にはないんだから、それが事実かどうかわかんねえだろ?」
「私が覚えていれば、それで十分だろう?」
「十分なわけあるか!」
 この話を始めて、いったい何度このやり取りを繰り返したことだろう。
 オレが今いるのは、真っ白なシーツのダブルサイズのベッドにその横にはサイドテーブルにイス。遮光の茶色のカーテン、ベッドとは反対側に二人がけのソファにガラスのテーブル。出入り口の近くにはユニットバスがあるのだろうドアという、狭くも広くもないどこかのホテルの一室。時刻はカーテンの隙間から差してくる光から察するに朝。そして、オレとベッドの上で全裸で膝を突き合わせて会話をしている人物は、オレの勤め先の同期である相澤保弘(あいざわやすひろ)二十七歳、性別はオレと同じ男。
 相澤とは同期というだけで、特に親しくはない。親しくはない上に、オレは相澤が嫌いだ。それに、相澤だってオレのことは嫌いだと思っていた。
 相澤保弘。切れ長の二重に、筋の通った鼻梁。血色のよさそうな薄い唇。無駄に整った顔。なにを食って育ってきたのか、オレより十センチくらい高い、百八十四という身長。ジム通いをしていると女子社員が言っていたその体躯は、ほどよく筋肉がつき、羨ましいくらいに均整がとれている。
 完璧なのではないかと思える容姿に加え、仕事もできる相澤のことがオレは嫌いだ。
 仕事ができるという部分は嫉妬もなくちゃんと認めてはいるが、オレは相澤みたいな【イケメン】といわれる部類の人間が好きになれない性質なのだ。
 格好いいから嫌いというのは、ただ単にオレがそうではないから妬いているかというと、そういうわけではない。タイプじゃないから好きじゃないというだけ。
 わがまま? 単純思考? そんなこと、知ったこっちゃないね。
 相澤の性別が男と言う点では、物心ついたときから自分がゲイだと自覚しているオレからすれば、第一条件を満たしてはいる。しかし、オレのタイプはイケメンとは反対側にいる人間。
 見た目は中くらいかそれより下。そして、ぷよぷよとしたふくよかな体型、オレよりも小さい、ちょっと抜けた性格をしている男が、オレのタイプ。
 だから、間違ってもまったくオレのタイプではない相澤のことを好きということはありえない話なんだ。
 そうだっていうのに、今のオレの現状はどう説明をしたらいいんだろうか。オレの主張を見事に裏切ってくれる状況じゃないか。ちょっと泣きたくなってくる。
 そもそもどうしてオレは、相澤と全裸でホテルに、しかもベッドにいるんだ? 相澤はオレが相澤に告白をしたとかぬかしやがるし。
 ……というか、ここが一番重要だ。オレは……ヤったのか……? 相澤と、行為を致してしまったのか……?
 チラッと躰に視線を落とせば、オレの躰にも、相澤の躰にもいたるところにキスマークがついている。しかし、オレのケツに違和感もなければ、下半身がスッキリしている感覚もない。……いやまあ、オレはタチだから、ケツに違和感を感じていたら即に相澤のチンコでも握りつぶしてしまいかねなかったが。
「名取晋介(なとりしんすけ)。ちゃんと私の話を聞いているのか?」
「……あ? 聞いてねえよ。それがどうした」
「聞いていないという失礼な行為をしているのに、胸を張るな」
「うっせえ。つか、オレはもう帰る」
 腕を組み、全裸なのに偉そうな態度の相澤。コイツとは片手で数える程度しか私用の会話をしたことがないから、対応の仕方がわからないオレは、話も埒が明かないことだしと、逃げるようにしてベッドから立ち上がった。
「待てダーリン」
「――!?」
 ベッドから降り、立ち去ろうとしたオレの腕を掴んで捕らえながら発せられた相澤の言葉は、オレを硬直させるのに十分な威力を持っていた。
 ……今、なんっつた……? オレの聞き間違えか? こんな、さっきから表情一つ変えないポーカーフェイスの男が、オレのことを今時誰も言っていないだろう【ダーリン】なんて言葉をのたまったか……? コイツが? マジで……?
 耳に、いや、脳に直接響いてきた相澤の声に、オレはギギギと音がしそうなくらい硬い動きで首を動かして、まだベッドに胡坐をかいて座っている男を見た。
「お前、ハニーを置き去りにして、どこに行こうというんだ?」
「――!?」
 ま、また言った! オレの聞き間違えじゃなかった! ありえない! この顔で自分のことをハニーってか!? いや、ツッコムところはそこじゃない。じゃあどこだ? もうオレはなにがなんだかわからない!
 余計に躰の硬直は増し、思考停止しそうになっているオレの腕を支えにするように引っ張って立ち上がる相澤。
 オレの真正面に立った相澤は、オレの腕を離さないままに妙な威圧感を漂わせながらオレを見下ろしてくる。
「な、なんだよ」
「私を置いて行くのは酷いんじゃないのか?」
「酷くなんてないだろ。オレは自分の家に帰るだけなんだから、お前には関係ない」
「私も帰る。ホテルのベッドとういのは、どうも寝苦しくて適わない。眠い」
「じゃあ、勝手に帰れよ。オレも帰んだから」
「どうせ方向は同じなんだから、一緒に帰ろうではないか」
 そう言った相澤は、オレに有無を言わせないといわんばかりに、掴んでいる腕に力を込めた。
「っ――!!」
 ……さすがに男の力だけあって痛い。このまま力を込め続けられたら、腕が簡単に折れてしまうんじゃないかというくらいの力。マジに痛い。
 うっすらと笑顔を浮かべている相澤だが、もしかして怒っているのか? この場合、怒るのはオレの方だろうに、いったいなにに怒ってるっていうんだ?
「……なあ、一つ訊いていいか?」
「どうぞ」
「アンタ、ゲイ……?」
 好きだと言った言わないの口論で忘れていた、根本的な問題。今のタイミングで言っていいものなのかはなはだ疑問ではあるが、オレのその質問に相澤は腕に込めていた力を緩める。しかし、その手を離そうとはしなかった。
 笑顔を引っ込め、真面目な顔をする相澤。オレの言ったことは、なにかマズイことだったんだろうか。もっともな疑問だと思うんだが。オレと同じ状況に陥った人間ならば、同じ疑問を口にするに違いない。オレがちょっと忘れていただけで、一番初めに訊かなければいけないはずの質問。
 もしかして相澤は、こういうことを訊かれるとは思ってなかったのか? それは、アホだろ。以外とヌケてるところがあるんだな。
「……名取の方はどうなんだい?」
「質問を質問で返してくるのか、アンタは」
「名取が答えてくれたら、私も答えよう」
「交換条件とは、いい度胸してんじゃねえか」
「立場は、一緒だと思うんだが? というか、なにも覚えていないお前よりも、なにもかも覚えている私の方が優位なのではないか?」
「ぐっ……」
 そう言われてしまうと、なにも返す言葉が見つからない。
「それで、どうなんだい?」