淡い禁断の心



「兄さん、学校行くよー」
「ああ、ちょっと待ってくれ!」
 俺が準備万端で玄関に立ちながら声をかければ、二階からドタバタと慌てている兄さんの足音が聞こえてくる。
(……なんで毎日同じ時間に起きてんのに、俺より準備が遅いんだよ)
 毎朝思っていることを考えながら、俺は兄さんが降りてくるのを待つ。
 しばらくしてけたたましく階段を下りてくる音が聞こえてきた。俺は暇潰しに操作していた携帯を閉じ、兄さんを見る。
「……またビッシリ決まってんのな」
「当たり前だろ。身だしなみは基本だ」
 毎度のことながら呆れる。兄さんが俺よりも支度の遅い理由。それは、髪から制服まで丹念にチェックをしているせいだった。
 どうして学校に行くだけなのに、そんなに身なりを気にするのか俺には理解できない。以前に一度兄さんにそれを訊いてみたところ、『他人にだらしない姿は見せられない』と言われた。
 家にいる時は思い切りだらけた格好をしているのに、外にでる時はそれとはうって変わってちゃんとしている。兄さんの切り替えのよさに、俺は呆れながらも感心してしまう。
(感心なんてほんの数ミリだけだけど)
 自分のせいで出発が遅れているくせに、さっさとしないと遅刻する。という兄さんの背中を見ながら、俺は大きく溜め息をついた。



*****



「今日もお前の兄さんカッコいいな」
 教室につき俺が席に座るなり、同じクラスの滝山が俺の前の席に座りながら言ってきた。
 毎日のように聞いている滝山の台詞を、俺は綺麗に無視する。
 兄さんは学校ではほぼ全校生徒から憧れの的になっていた。
 風紀委員長で、成績はトップクラス。スポーツ万能で、俺が言うのもなんだが、容姿も端麗。身長は俺より低い百七十六センチ。学校にいる時だけの兄さんの姿を見たら、憧れるのは理解できなくもない。
 しかし俺は家にいる時の兄さんのだらしない姿をいつも見ているから、俺はまったくなんとも思わない。
 俺と兄さんが兄弟なのが羨ましいと、耳にタコができるくらい聞いてきた。変わりたいと言われたりするが、俺だって変わってやりたい。しかし、面倒だから何も言わないが。
「……人間誰しも裏はある」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもない。今日もまた面倒な一日が始まるなって言ったんだ」
「ホントお前やる気ないよな。少しは兄さんを見習えよ」
「あーはいはい。気が向いたらな」
 毎度言われる小言を聞き流しながら、俺は窓の外に視線をやった。
 校門では風紀検査が行われている。そこには当然のことながら、兄さんも立ち会っていた。
 完璧な外用の笑顔を顔に浮かべながら、登校してくる生徒たちの服装をチェックしている。
 たまに兄さんに注意をされている生徒は、顔を赤らめながら兄さんの言葉を聞いていたりする。
(……やっぱすげーのな)
 兄さんの人気ぶり、切り替えのよさに、俺は再び少し感心した。



*****



「陽一」
 放課後。俺が帰り支度を始めていると、俺の名前を呼ぶ声が耳に入ってきた。それは聞き慣れた兄さんの声。俺は鞄に荷物を入れていた手を止めて、視線を入り口の方にやる。
 もっとも、教室のざわめきようで声をかけられるよりも先に、俺は兄さんが教室に来ていたことに気づいていたのだが。
 兄さんがいる所は、どこでも分かりやすくざわめきが起きる。そんなものにいちいち反応していたら疲れるので、俺はいつも無視をしていた。そのため、学校で兄さんのことを見るのは、偶然目に入った時や、今みたいに声をかけられた時だけだ。
「今日は母さんたちもいないし、二人で夕飯の買い物をして帰ろうか?」
 二年の教室だというのにお構いなしに兄さんは中に入り俺の側まで歩み寄る。その途中、何人かが兄さんに声をかけていた。兄さんはそれに笑顔で答えていた。
(……作るのは俺なんだろうな、どうせ)
 兄さんが作ると勘違いをしている周りの人間のヒソヒソ話を耳にしながら、俺は心の中で愚痴る。
 両親は仕事の都合でよく家を留守にすることがある。そういう時は大抵俺が家事をしていた。兄さんが俺を手伝うのはごくまれのこと。気が向いた時は手伝いをしてくれるが、そんなのは十回に一回あるかないかの話だ。
 今回も手伝ってくれることはないんだろうなと思いながら、荷物を詰める作業を再開させる。
「さ、帰ろ?」
 兄さんはクラスメイトの視線をすべて集め、俺の元にやってきた。そして背伸びをして俺の耳元で話を始める。
「今日は陽一お手製のハンバーグが食べたいな。作ってくれる?」
 兄さんは学校にいる時、よく俺に耳打ちをしてくることがある。それをされる度に、俺に痛いくらいの生徒たちからの嫉妬の視線が集まってくる。止めてくれと何度も言っているのだが、『陽一は特別なんだよ。周りの目なんてオレは気にしない』と理由になっていない理由を付けられ止めてくれない。兄さんが気にしなくても俺は面倒だから嫌なんだと言っても、頑として止める気はないらしい。
(弟だから特別ってか……?)
 嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分。
「兄さんが手伝ってくれるなら、考えてやらないこともない」
「本当かい? じゃあ、オレ手伝うよ」
 俺の返事に兄さんは嬉しそうに微笑むと、俺を促して教室を出る。
 学校を出る間、兄さんに別れの挨拶をする生徒が大勢いた。その生徒たちみんなに挨拶を返す兄さん。
(外でこんだけ愛想良くしてるから、家に帰ったら疲れ切ってあんなだらけてんのか?)
 ふとそんなことを思い、すぐにそれはないなと自分の考えを否定すると、兄さんと並びながら夕飯の買い物に向かった。