君は何色

逃走劇



 途中勢いを緩めた僕は、とりあえず一階まで息を整えながら移動をしてきていた。
 旅館の玄関とは反対側に位置しているちょっとした娯楽施設。そのフロアに設置されている喫煙所に入り、盛大に溜め息をついた。
 宿泊客は多いが、僕のいる喫煙所に入ってくる人間はいない。他に人が入って来ないのは好都合だ。一人でゆっくりと考え事ができる。
 ズボンのポケットに入っている煙草とライターを取り出し、吸い始めた。大きく息を吸い込み、同じように大きく吐き出す。吐き出した紫煙を目で追いながら、考えを纏めようとする。
 栄斗の発言の意味。そして、どうして僕はあそこで、好きなのかどうかを訊ねてしまったのか。冗談だと受け流せなかったのには、栄斗の雰囲気以外に、他に理由かあったからなのではないか。
 ……他の理由って、そんなことを考えたら、まるで僕が……。そんなこと、あるはずがないじゃないか。相手は、あの栄斗なんだぞ? おかしなことを言うのは当たり前。人の話しなんて聞いていない。人がどう思っていようが、他人にどう思われていようが関係ないと平気で言える、あの栄斗なんだぞ。いくらなんでも、人としてどうかと思っている相手に、それはないだろ。
 色々と考え、そしてその考えた結果を否定して……。考えが堂々巡りで、少しも考えが纏まらない。煙草もとうに吸い終えてしまっていた。そしてしまいには、どうして僕が栄斗のことで悩まなければいけないのかと、腹が立ってくる始末。
「……どうしたらいいのかねー。あの、馬鹿栄斗」
「なにか、お悩みなんですか?」
「っ!?」
 呟いた独り言に対して声が聞こえてきたことに驚き、声のした方に顔を向ける。
 考えに浸りすぎていたせいで、他に人が入ってきていたことに僕は気づいていなかったらしい。独り言を聞かれてしまったなんて、恥ずかしい。しかも、悩みがあるのかと聞かれてしまった。
 僕が驚いたことなど気にしていないのか、いつの間にか僕の隣で煙草を吸っていた男は、柔らかい微笑を湛えながら紫煙をくゆらせて僕を見ていた。
 ダークグレーのスーツに身を包んだ、落ち着いた雰囲気を持っている、僕より頭半分大きい色の白い男。清潔感のある黒い髪を軽く後ろに流してセットした頭に、優しい印象を与えてくれる一重の目元。筋の通った鼻梁に薄い唇。
 ……あれ? 知らない人間のはずなのに、なぜだろう、この親近感は……?
 逢ったこともない男に感じ感覚に首をかしげていると、男は短くなった煙草を灰皿に押しつけて火を消した。
「突然失礼しました。私の弟と同じ名前をあなたが言っていたので、つい声をかけてしまいました」
「おとう、と……?」
 まあ、世の中同じ名前の人間なんていくらでもいるだろう。僕が暴言を吐いた名前が自分の弟と同じ名前だったら、気になってしまうのも当然なのかもしれない。だからといって、そう簡単に知らない人間に声をかけたりするだろうか。
「もしかして、私のことを警戒なさっていますか?」
「え、いや、そんなことは」
「私が他人だからそう思われるのでしょうね。私、相田久斗(あいだひさと)と申します。歳は三十、経営の仕事をしています。あなたのお名前は?」
「へ? ふ、深海不二明、です。大学三年です……」
 相田と名乗った男につられ、自己紹介をしてしまった。
 ……ん? 相田久斗……?
「深海くんですか。お互いの名前もわかりましたし、これで私とあなたは他人ではなくなりましたね」
 そう言いながら相田さんは僕に右手を差し出してきた。自己紹介をしたから他人じゃなくなると言う理屈はいったいどこからきているのか疑問に思ったが、相田さんは冗談ではなく本気でそう言っているように見える。
 気さくというか、馴れ馴れしいというか。悪い人ではなさそうだが、なんだか軽そうな人だな。そう思いながらも、差し出された右手に手を伸ばした。僕の差し出した手を力強く握ると、相田さんは柔らかく微笑んだ。
 ……相田久斗。相田。こんなところでピシッとしたスーツを着て、しかも経営の仕事をしているって、もしかして、この人って……?
 いや、同じ苗字の人間などたくさんいる。しかし、偶然がこうも一気に重なったりするだろうか。そう思いつつ、僕はためらいがちに相田さんに問いかけた。
「……あの、相田さん。つかぬことをお聞きしますが、弟さんって、相田栄斗、って名前ですか……?」
「はい。君と同じ年で、大学三年。私と同じくらいの身長で、あまり笑わない……と言いますか、無表情が特徴ですね。あとは、なにを言っているのか理解できない言動を取ったりするのも特徴です」
 突然の僕の質問に、相田さんは笑顔を崩さないままに答えた。
 無表情で、理解できない言動を取る。それはもう、僕の知っている栄斗そのものの特徴と酷似している。ということは、この人は栄斗のお兄さん。……僕、お兄さんの前で栄斗の暴言を吐いてしまったのか。なんという失態を犯してしまったんだ、僕は。
 相田さんが栄斗の兄というのなら、僕の感じた親近感の謎は解けた。相田さんは栄斗と顔が似ているんだ。栄斗が笑っているところを見たことがなかったから、すぐに一致させることができなかった。
 栄斗が笑ったらこういう顔になるのかなと、相田さんの顔を見ながら栄斗の笑ったところを想像してみる。……いや、できない。僕の想像力が乏しいからか、栄斗の無表情があまりにも頭の中に強く根づいているせいか、想像したとしても恐ろしい笑顔しか頭の中に浮かんでこなかった。
「それと、もう一つ言い忘れていることがあります」
 おかしな想像を僕がしているとは想像もつかないだろう相田さんは僕から手を離すと、笑顔を苦笑に変えた。
「実は私、あなたのことを知っていたんですよ」
「え……?」
 相田さんの言葉に、僕は呆けた声を出す。
「以前、栄斗に写真を見せてもらったことがありましてね。それに時々、あなたの話を栄斗から聞いていたんです。知らない振りをしたのは、ちょっとしたお茶目心というものでして……。申し訳ありません」
「あ、いや、そうなんですか……」
 相田さんが僕に声をかけてきたのは偶然ではなく、僕のことを知っていたからだったのか。誰にでもすぐに声をかける軽い人などと思ってしまったことを心の中で謝罪する。
 しかし、お茶目心で知らない振りをしていたとか……。どうしてそんなことがしたかったのか、僕には理解できない。栄斗とは違う意味で、相田さんの行動は理解ができないと思った。それとも、これくらいのユーモアがなければ、社会人としてやっていけないのか? ……って、そんなわけあるか。
 なんとなく落ち着かなくて僕はポケットから煙草を取り出して口に咥えた。その僕に倣ってか、相田さんももう一本煙草を取り出して火をつける。
「深海くんと栄斗が、今日からうちに泊まりに来るということは栄斗から聞いていたので、後でご挨拶に伺おうと思っていたんです。しかし、こんなにも早くお逢いできるとは思っていませんでした。それも、二人きりで」
 紫煙を吐き出しながらなにかを含んだ言い方をする久斗さんに、僕は固い笑顔でどうもと答える。
 煙草を咥えながら、相田さんの顔を見る。
「そういえば、栄斗がなにかをしたんですか?」
 見れば見るほど栄斗と似ているなと思いながら相田さんを見ていると、相田さんが長くなった灰を灰皿に落としながら聞いてきた。
 相田さんの口から出た栄斗の名前に、僕は少し肩を揺らした。
 そういえば僕は、お兄さんの前で栄斗のことを馬鹿と言ってしまったんだった。いくら相田さんがいるのに僕が気づいていなかったとしても、自分の弟を馬鹿呼ばわりされたのはいい気がしないだろう。
「あ、あの、すみませんでした」
「私、あなたになにかしましたっけ?」
 突然僕が謝ったことに対して、相田さんは煙草を灰皿に押しつけながら不思議そうな顔をした。
 僕もあまり吸っていないが短くなった煙草の火を消すと、首をかしげている相田さんに言う。