記憶の中にあるもの

あたらしい始まり



 暖かく、少し湿っぽい感触。
 小さい頃によく感じていた感触。とても安心する温もり。その温もりを感じてるおかげか、苦しい胸のつっかえがスッと引いていくようだ……。
 近くに誰かいる気配がして、重たい瞼を力を入れて持ち上げる。
「……名取、気がついたか?」
「……あ……?」
 聞こえてきた声に、眉を潜めた。
 まだハッキリとしていない意識の中、まず始めに自分が今どこにいるのかを確認する。
 ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れた天井に、よく知った家具の数々。
 ここは……間違いない。オレの部屋だ……。
 だが、なんで部屋にいるんだ? さっきまで確かに会社にいたはずだ。それなのに、なぜ? もしかして無意識のうちに自分で部屋まで帰ってきたっていうのか?
 そんな神業がかったことができるわけないと思い、視線をオレのことを運んできたのであろう声の主に視線を移した。
「……会社は?」
「有給を取った。なにか言われるかと思ったが、お前の状態を見たら、誰もなにも言わなかった」
「あそ」
 オレの方はともかく、アンタは別に休む必要はなかったんじゃないのかと思いながらも、しかしそこを突っ込んで言い合いになるのも体力的に面倒だったので、素っ気なく返してから目を瞑って枕に頭を沈める。
 意識を失うなんて、生きてきた中で初めての体験のせいで戸惑いが残っている。
 柄にもなく考えすぎて、何日も寝不足だったのがいけなかったんだな。人間、慣れないことをするもんじゃないってことを身にしみて学んだ日だ。
 こういうことを身をもって体験するなんて、本当はしたくはなかったがな。
「医者に行く必要はないと言ったので、部屋に連れて来たが、本当に医者に見てもらわなくても大丈夫なのか?」
「そんなこと言ったのか?」
「ああ、覚えていないのか? お前は本当に自分の発言に対して責任が持てないんだな」
「うるせえ。覚えてないもんはしょうがねえだろ」
「まあ、今回は意識が朦朧だったのだから仕方がないとしておこう。しかし、本当に診てもらわなくても大丈夫なのか?」
「ああ、そんな大した問題はない。ただの寝不足だってだけだから。今まで寝てただけでも結構楽になったからな」
 会社で感じた、目を瞑った時に感じた眩暈は今はもう感じられなかった。時計は見ていないからどれだけ眠っていたのかはわからないが、頭のスッキリ具合からして、結構長い時間眠っていたんじゃないだろうか。
「今、何時だ?」
「十二時ちょっと前だ」
「そっか……。てかお前、ずっといたのかよ」
「まあな。突然倒れて、病院に行きたがらない人間を放って帰れるほど、私は薄情ではないからな」
「あ、そう……。まあ、今日は礼を言う、ありがとう。もう目が覚めたから、帰ってもいいぞ」
「いや、まだ用事は済んでいない」
「なんだよ」
 帰ろうとしない相澤に、オレは目を開けて上半身を起こす。
 上着とネクタイとベルトは身に着けていなかった。きっと相澤が脱がしたんだろう。細かいところに気が回るというか、気にしすぎというか。それがコイツの性格なんだろうが。
 それにしても相澤の用事ってのはなんだ。もしかして、具合が悪いのなら始めから会社に来るなとか、そういう説教臭いことをいうんじゃないだろうな。それだったら聞きたくない。寝不足になったのはいったい誰のせいだって言うんだ。
 まあ、こんなになったのは結局はオレのせいなんだが、一因は相澤にもあるわけで。それをコイツに説教されるなんて真っ平ごめんだ。
「オレに話はないから、帰れ」
「まだお前は私の質問に答えていないじゃないか。それに答えるまで、私は帰らない」
「質問なんかされてたっけか? オレは物覚えが悪いからそんなこと言われたかどうか知らないな」
 わざと皮肉っぽく言えば、床に座っていた相澤は立ち上がり、苦笑しながらオレの座っているベッドの端に腰を下ろした。
 軋むスプリングの音を躰でも感じながら、相澤の横顔を眺める。
 オレが目を覚ましてから相澤がしてきた質問は、医者に行くか否かだ。それにはちゃんと答えたから、コイツが聞きたいのはそれとは違うこと。
 さて、いったいなにを質問されていたのか。オレが意識を失う前なんだろうが、さっぱり覚えていない。
 オレが黙っていることで、相澤はオレが理解してないことを見抜いたんだろう。相澤はもはや慣れたとでも言いたい顔で、口を開く。
「お前の体調不良の理由を訊いたんだ」
「……あー、そうだったか?」
「まあ、多少違うが同じようなものだろう。それで、どうなんだ? お前みたいな神経の図太い男が寝不足になるだなんて、いったいどんなトラブルが起きたというんだ?」
「トラブル……ねえ……」
 トラブルと言えばトラブルなんだろうが、これはどう答えたらいいものか。説明しようにも、ごちゃごちゃとしてまとまりのない話だ。それを一から話すのも面倒。
 ……いや待て。これ以上悩むのは、やっぱりオレの性格にはあってないよな。そうだよな。
 丁度いいことに、ここに本人がいるんだ。それに、今日はこの間みたいに邪魔は入らないだろうから、相澤が立ち去らない限り話が打ち切られることもないだろう。
 まあ、帰ろうとしても、無理にでも引き止めてやる。できれば一生体験なんてしたくなかった体験をしてしまった原因を、根こそぎ解決してやる。
 そんなことを決意しながら、オレは相澤の横顔を見つめた。
「なんだ?」
「……トラブルが起きたっていうか、昨日、潤次って男と話をした」
「……そうか」
 潤次という名前を出した瞬間、相澤は顔を顰めた。その反応から、オレとあの男が接触するのは好ましくないと思っていたんだろということが伺えた。
 まあ実際、潤次って男はコイツからオレに余計なことを言うなと言われてる、みたいなことを言っていた記憶がある。しかし、あの男が人の言うことを聞かないだろうということは、幼馴染だっていうコイツなら、わかってたんじゃないだろうか。
「それで、潤次の奴は、お前になにを言ったんだ……」
「……【斉藤】って男に、心当たりはないかって訊かれた……」
 もっといろんなことを訊かれたり聞かされたりしたが、これが一番大事なことだから、これ以外のことは相澤に話す必要はないだろう。そう思い、相澤の反応を伺う。
 名前を出したら、相澤はうろたえる反応を見せるかもしれない。そう思ったのだが、予想に反して相澤の反応は薄いものだった。
 オレの勘が外れてたのか? ヤスは相澤だとオレは思ったし、あの男の話し方からしてそうだと確信していたのに、この反応……二人は関係ない人間なのか?
 あんなに意味深に話してたのに、無関係だなんて、そんなことないはずだ。
 それに、オレの感じたことも、気のせいでは片づけられるもんではない。
 眉を潜め、反応の薄い相澤の真意を見極めるように、ジッと相澤を見つめる。
 視線を交わらせ、少しの時間が経つ。
 オレの考えが間違いだったというなら、もっと違う反応を見せただろう。それがないとういうことは、そこまで勘は外れてはないということなんじゃないだろうか。