記憶の中にあるもの

あたらしい始まり 3

「――っ!」
 たっぷり時間をかけて答えた相澤に、目を見開く。それは驚きからではなく、怒りから。
 どうしてここまできて、そんな風に真実を言わないなんていう選択をするんだ。
 正直に答えを言ってしまえばいいのに。それとも、相澤は本当のことを言わない方が気持ちが楽なんだろうか。そんなの、そんな選択、悲しすぎるだろ。
 本当のことをずっと隠したまま、偽りの自分で居続けるなんて、そんなことを続けていたら、おかしくなっちまうんじゃないのか……?
「相澤お前!」
「そう。今の私は紛れもなく【相澤】なんだ。お前だって今、そう呼んだだろう」
 相澤のその言葉に、オレは黙った。
 確かに、オレはコイツのことを【相澤】と呼んだ。それにオレは、コイツのことを【斉藤】とも【ヤス】とも呼ぶことはできない。オレの目の前にいるのは、会社の同僚で気に食わない存在の【相澤保弘】なのは、真実だ。
 ……それはわかる。わかるが、だからといってそれがオレの納得のいく答えではないのも明白だ。
 だったら、どうすればいい。
 コイツのことを、【ヤス】と呼べばいいのか? そうすれば、コイツは認めるっていうのか?
 それはないだろう。これは、そんな簡単な話じゃない。なら、どうすれば、灰色のままじゃなくて白黒ハッキリするっていうんだ……。
 ギリッと奥歯を噛みしめながら、怒鳴らないよう自分を落ち着かせながら納得のいく答えが返ってくるまで質問を続ける。
「……なら、質問を変える。お前は、【ヤス】なのか……?」
「それは……」
「それは?」
 目は口ほどに物を言うというのを、オレは初めて目の当たりにしている。
 普段の相澤の瞳なら、どんな自体に陥っても揺れることなく真っ直ぐと人のことを見ているのに、今の相澤はその様子など見る影もない。それほどまでに、このことは隠しておきたかったことなんだろう。なんでそこまで必死に隠しておく必要があったのか。それは相澤本人しかわからないこと。
 それを訊こうにも、先に相澤が正体を明かしてくれなければ話は次に進まない。
 じれったくてしょうがない沈黙に、堪えることに躰がむず痒くなりながらも辛抱して相澤を待つ。
 オレの部屋には壁掛けの時計はないから、部屋の中はたまに聞こえてくる外の音意外、二人の呼吸しか聞こえない。その静けさが、逆に相澤の沈黙を増幅させているのか、それともなにかの覚悟を決め始めているのか。
「………………。そうでもあり、そうではない……」
「……どういうことだ」
「私にも、わからなくなってしまった。……最初は、本当に他人になろうとしていた……」
 沈黙から解放されたと表現をしていいように、相澤はぎこちなさを残しながらも、次々と話し始めた。
 ようやく相澤の口から真実を知ることができる。オレは相澤の言葉を遮ることもなく、ジッと耳を澄ます。
 真実を待ち望んでいたはずなのに、いざそれを目の前にすると、尻込みしそうになってる自分がいることに笑ってしまう。
 滅多なことじゃ緊張なんてしないはずなのに、じっとりと手の平に汗をかいていて、なにもしてないのに心臓の鼓動が早くなっていく。
 話し始めた相澤が視線を伏せたが、それは気にしないことにして、話す言葉を一つも逃さないように神経を傾ける。
「……あの時、初めてちゃんと私のことを見てくれる人が現れて、凄く嬉しかった。しかし、それは最初の頃だけで、徐々にその人は私のことを見てくれなくなっていた……。ああ、この人は、私の外見だけが目当てで、それ以外は必要とはしていないんだと、気づいた……。それが悲しくて、辛くて……。でも、関係を持ってる時は、それをちゃんと伝えることはできなかった。……まあ、最後には言いたいことを言って、逃げたのだが……」
 自嘲的に笑う相澤。
 言いたいことってのは、きっとオレの記憶に残っているあの言葉なんだろう。
 オレの質問にちゃんとは答えていないが、もう相澤は答え以上の話をしている。
 この話でもう確実だ。
 相澤は――ヤス――。
「とりあえずは、別人になることが目的だった。それ以外のことは、特に考えてはいなかった……。まず始めに見た目を変えて、話し方も、人との接し方も百八十度変えて……。なんとか変わって、周りの私を見る目も変化して、やっと新しい自分を見つけて馴染んできた時、不覚にもお前と再会してしまった……」
 そう言い、苦虫を噛み潰したような苦しげな表情をする相澤。
 もしかしなくても、コイツはオレと二度と逢いたくはなかったんだろう。
 まあ、それも当然か。自分のことを善意で変える結果になった人間ならいざ知らず、嫌な思い出しか与えなかった人間になど、オレだって逢いたくはない。
 ……それなのに、コイツはオレと再会してしまった。
 だが、オレはコイツに気づくことはなかった。だからコイツは【相澤】としての生活をしていくことに、問題はないと感じたのかもしれない。
 ……それもそれで、どうかとは思うが。嫌なら、オレから離れればよかったのに。
 しかしオレだったらどうしただろう。嫌いな人間がいるってだけで、離れるために会社を辞めるか? ……いや、オレだったらしない。そんなこと、社会人になってまでやろうとは思わない。きっと、コイツもそう思って今まで仕事をしてきたのかもしれない。
 だから、この五年ほとんど接触もなく、仲良くなることもなく過ごしてきたんだろう。コイツにとって、今のオレたちの関係は望んではいなかったものに違いない。
 ……しかし、それだっていうのに、なんでコイツはあの日ホテルでおかしな条件を出してきたんだ。
 あの日はコイツの方が先に目を覚ましていた。なら、その間にいなくなってしまえば、こんな状況に陥ることはなかったなずだろう。それなのに、どうしてわざわざコイツはわざわざ自分自身でオレと接触をしなければいけない現状を生み出したんだろう。
 そこが、コイツの正体以上にわからないことだ。
「入社当時は、お前と顔を合わせるのが苦痛で仕方がなかった……。お前は私にはまったく気づいていなかった、それは幸いだったが、毎日顔をつき合わせるという行為は、予想以上に私を苦しめた。しかし、それもだんだんと慣れ、お前の顔を見てもなんとも思わなくなってきていた。必要以上に接触をしなければ、お前は私に興味を持つことはないということは、お前の好みのタイプを知っている私にはよくわかっていたからな」
 確かに、オレはコイツにまったく興味はなかった。イケメンはオレのタイプじゃない。それに加え、同期入社でなにかと比べられ、ライバルに等しい位置にいた男と仲良くしようとも思っていなかった。
「……あの日、酔いつぶれたお前を介抱しようなんて気紛れを起こさなければ、こんな関係にはならなかったのにな……」
 自分の失態を後悔してか、ヤツは片手で頭を押さえ、乾いた笑い声を上げる。
「お前が酔いつぶれて、私のことを昔のように呼んだせいで、少し魔が差してしまったんだろう。……後は、人肌が恋しかったのかも、しれない……」
 その日のことは本当にオレはまったく覚えていない。だから、コイツの言ってることを信じることしか、オレにはできない。
「……アンタは、オレになにを求めようとしたんだ……?」
 ふと思った疑問を口に出せば、ヤツは苦笑いを顔に張りつかせながらオレを見る。その瞳には力はなく、どこか寂しげなものだった。
「私は、お前にちょっとした復讐をしようとしていた。まあ、どうしようと考えていたわけではなく、お前の嫌がりそうなことをして、ただお前をからかって遊べれば、それで満足だったんだ」
 表情はとても悲しげなのに、言ってることは人でなしと言ってもいい内容だ。オレの覚えてるヤスとは性格は正反対と言っても過言ではない。
 自分改造をしたとコイツは言ったが、人間というのはそこまで変わることができるのか。……きっと、オレなんかじゃ想像もつかないくらい強い意志があったんだな。
 そうさせてしまったのがオレなんだということが、酷く胸にのしかかる。しかし、だからといって、オレにしてやれることなんてなにもない。