記憶の中にあるもの

あたらしい始まり 4

「……本当は、少ししたら元の通りに戻るつもりだった。そのつもりだったんだが、浅ましくも……欲が、出てしまった……」
 額にかかった髪をかき上げながら、座っているのが落ち着かなかったのか、ヤツは立ち上がった。それを目で追いながら、話の先を促すことはせず、じっと相澤のことを見てる。
「……目的は、いつでもきちんと頭の中にあった。しかし、それが何回かお前と時間を共にしている内に、気持ちがぶれていった。……精神的にも強くなったと自負していたのだが、お前への気持ちが、まだ――私の中にあったらしい……」
「――っ!?」
 衝撃的な言葉に、息を呑む。
 コイツは、なんて言った……?
「あんな気持ち、永遠に忘れようとした。いや、忘れ去ったはずだった……。現に、会社でお前と再会するまで、お前のことを思い出すことはなかったんだ。会社でただ顔を合わせている時だって、お前に気持ちは向いていなかった。……それなのに、お前と接触を取り始めた時から、お前への気持ちが再び芽生え始めてきて、戸惑った……」
 自嘲的に乾いた笑を浮かべ、チラッとオレを見る。しかし、すぐに視線はオレから逸れた。
「今になったら、あんな条件出すんじゃなかったって、悔やみきれないほど後悔している。毎週お前に逢う度に、この関係をなかったことにしようとしていたのだが、いい言い訳が思い浮かばなかった。……お前は、いきなり私が明日からはいつも通りに戻ると言っても、信じはしなかっただろう」
「ああ、そうだな」
 ヤツの問いかけに正直に頷く。
 現に、コイツと連絡も会話もできなくなった時、オレはコイツのことを疑った。
 あの時はそれ以外の気持ちも生まれ始めていたから、疑いだけを抱いただけではなかったが、その気持ちがなければ、疑いを抱いたまま安心できるまでコイツのことを疑い続けていたに違いない。
「そうだろうな。お前はそういう男だ。……私としたことが、いくら考えても最善の策を思いつくことができなかった。どうしたらいいのかわからなくなっていた時、お前と親しそうにしているあの若い男を見て、私は胸が酷く痛んだ。お前の近くにいるから、こんな気持ちになる。近くにいるから、見たもないものを見てしまう。……だったら、なにも言わずに離れてしまえばいい。少しの間はお前は不愉快な思いをさせるだろうが、もともと私にはなんの興味もないお前なら、私が接触も取らず、会社に話すことをしないとわかれば、お前は私のことを気にすることはなくなるだろうと思った……」
 なんとも自分勝手な話だ。しかしまあ、そう考えたくなる気持ちもわからなくもない。
 責めたいような、同情してしまうような。……いや、同情は駄目だろ。オレは被害者なんだから、ここは責めないと。
 そう思ってるのに、コイツを責める言葉は出てこなかった。
「それなのに、オレがアンタに連絡取ったから、それもできなくなったと?」
「そういうことだな」
 オレがあの時メールをしなければ、コイツとの関係はあれで終わっていたということか。
 ……メールして、よかった……。
 ――はっ! なんだよ、よかったって! そんなこと思うなんて、オレ、やっぱマジなのか……。
 オレから背を向けているヤツを見上げながら、自分の気持ちが悔しいやらなんやら複雑な気持ちで顔を歪めた。
 なんていうか、今の話を聞く限り、オレは告白を受けてるような気持ちになった。
 どう考えたってこの話は、そうとしか受け取れないんじゃないか。
 オレへの気持ちがあったとか、また芽生え始めたとか。
 勉くんとオレが一緒にいることに、異様に反応したりとか。
 そういうのって、そういうのって……。
「……アンタ、土曜に言ったよな。オレに興味がなくなったんじゃなくて、その逆だって」
「……言ったな」
「それって、どういう意味が含まれてんだ?」
 問いかけるが、ヤツは黙る。
「答えないってんなら、オレの都合のいいように解釈するぞ」
「都合のいいように、だと……?」
 オレがコイツの言葉をどういう風に受け取る思ったのか、眉を寄せ、不思議そうな顔をしながらオレの方を振り向いた。そして、変な顔をする。
「……名取、その顔はなんだ……?」
「オレの顔がなんだって?」
「……なんで、そんな顔、して……」
「?」
 振り返ったヤツは、なんでか妙にうろたえた顔をしている。
 いったいオレがどんな顔をしているっていうんだ。……というかオレ、今日一日だけで顔をどうこう言われすぎなのは、気のせいか? そんなにオレは変な顔をしてるってか?
 しかし、このコイツの反応。これは、オレが不細工という意味で変な顔をしてるってわけじゃなさそうだな。なら、なんだ? オレが人の顔を見てうろたえる時は、相手がどんな顔をしてる時だろう……?
 オレの部屋には洗面所以外に鏡はない。だから自分がどんな顔をしてるかなんてもちろんわからない。
 確かめようもなく首を傾げていると、ヤツが咳払いをした。
「……そ、その、お前は私の言葉を、どういう風に解釈するというんだ?」
 オレがどんな顔をしてるのかは教えてくれる気はないのか、表情を取り繕いながら訊いてくる。
 この流れは、オレから先に言わなきゃいけないのか。どっちかっていうと、コイツの方から先に口を割らせようと思ったのに、ちょっとこれは予想外の展開だ。
 ……まあ、いいか。オレも少しは素直になった方がいいのかもしれない。
 これでどんな進展を見せるのかはわからない。どんな結果になるのか。
「……オレは、アンタがオレのことを好きになったって、そう思ってた」
 思ってたというか、今そう思った。
 正直、今の今までコイツがそんなことを言ってたことを忘れてた。
 あの時は、自分が相澤のことを好きだとわかってしまって混乱して、わけがわからなくなって、そのことを考えてる余裕なんてなかった。今パッと思いついたからついでに訊いてみた。だが、そんなことコイツは知る由もないので、それを匂わせないように話を続ける。
 オレの言葉を訊いてどう感じるのかと反応を伺ってると、サッと顔に朱が差した。
 ……照れてる。コイツ、照れてる。
 コイツの素直な反応に驚きながら、言葉を探すように口をパクパクさせているヤツを凝視する。
 しばらく動揺していたヤツだったが、ようやく
「ど、どうしてそんな風に、思ったんだ……」
 これまでの相澤からはまったく想像もつかない、まるで昔のヤスのような反応をしながら訊いてきた。
 もしかして、このまま話し続けていたら口調も元に戻るんじゃないだろうか。土曜に一瞬だけ見せたみたいになるんじゃないだろうか。いやでも、今までの仮面は咄嗟の時以外はそう簡単には剥がれはしないか。
 そんなことを思いながら、コイツの反応を見たおかげなのかどうなのか、それまで酷く混乱していた頭は、落ち着きを取り戻していた。
 落ち着きを取り戻すと同時に、寝不足になるまで考えに考えていた事柄が、徐々に頭の中からなくなり始めている。
 オレは始めからオレのままなんだ。悩むことなんて最初からなかったのかもしれない。
 自分の気持ちに正直になって、好みだ好みじゃないだなんて関係なく、意地にならずに自分の感じたままを受け止めればよかっただけなんだ。
 なにかがすとんと腹に落ちてきたように、妙に冷静になる。そして、腹の辺りが暖かくなる。
 オレはコイツ――相澤保弘――が好き。
 相澤が斉藤保弘で、オレの元彼で、オレに復讐をするためにオレに近づいてきた人間だったとしても、相澤と過ごしてきてオレが感じたことは嘘じゃない。