記憶の中にあるもの

あたらしい始まり 7

「おい、ダーリン?」
「…………い」
「あ?」
 小さすぎる声に、顔を近づける。
「…………ない」
「なにが」
「…………。私は、お前と別れてから、シてない!」
 逆切れしたよう怒鳴った相澤。近づけていた耳に予期せず入ってきた大きな声量に、慌てて顔を離す。
 大声の余韻に痛む耳を押さえながら、しかし相澤の言葉はしっかり聞いたので驚きに目を見開いた。
「まったくシてないのか!?」
「そうだ! 悪いか!」
「よく我慢できたな」
「我慢してない! もともとそういう行為が好きなワケじゃないんだ!」
 自分で言いながら、きっと恥ずかしいんだろう。声を張り上げながら言う相澤の口調は、多少崩れていた。それが嬉しくて、さらに続ける。
「一人ではシてただろ?」
「……変態」
「これは変態云々じゃなくて、ただ男としてなにもしないのは躰に悪いんじゃないのかって、心配して訊いてるだけだ」
 本当はただの好奇心だが、そんな正直に言ってしまったら絶対に教えてはくれないだろう。しかし、相澤の視線からは、オレの本心は見抜いてるという雰囲気が伝わってくる。
 ……視線が痛い。きっと心の中でド変態とか罵ってんだろうな。
 ジッと見詰め合うというか睨み合い、どちらも引かぬ状態だったが、観念したのか馬鹿らしくなったのか相澤の方が先に折れた。
「……必要にかられては、シていた」
「頻――」
「永遠に口を塞がれたいか」
 さらに質問を重ねようとしたが、きつく睨まれながら低い声で遮られてしまった。しかたなく肩を竦めながら口を噤み、小さく溜め息を吐く。
 さっきまで真っ赤になっていた相澤の顔は、不機嫌そうに歪められている。
 あまり表情が変わらない奴だと思っていたが、こうしてよく見ていると、怒ったり照れたり悲しそうだったりと、意外と表情豊かだ。
 ……そういえばオレ、相澤が笑ってるところみたことないんじゃないか? しかし、どうしたらコイツは笑うんだろうか。今笑ってくれって言ったところで、きっとあからさまに溜め息を吐かれて終わるだけだし。
 意図して人を笑わせたことなんて今までに経験したことはないから、いざ笑顔について考えてみると、難しい。オレはどんな時に笑うのか。コイツはいったいどういう時に笑うのか。
 笑うってなんだろう、なんて極論を考えそうになっていた時、声が聞こえてきて考えを中断させた。
「……これからどうしたい?」
「なにが?」
 相澤から離れ、ベッドに座り一人考えていたオレをまだ睨みながら相澤が訊いてきた。
「私は、どうしたらいい……?」
「だから、なにがだよ?」
「どうしてここでは鈍いんだ」
 違うことを考えていたこともあり、相澤がなにを言いたいのか本当にわかっていないオレに、相澤はこれ見よがしに溜め息を吐く。
 そこまで大袈裟な溜め息を吐く必要はないんじゃないかと思いながら、足を組み、膝の上に頬杖をつきながら相澤を見上げる。
「お前はやっぱり基本的には鈍い男なんだな。さっきまでとは大違いだ」
「さっきってなんだよ。オレはいつもこんな感じだろ?」
「……ああ、そうだな。名取は、名取なんだな……」
「ホント、なにが言いたいんだよアンタ? 言いたいことがあるんなら、ちゃんと言えよな。どうせ今日は一日暇なんだ。とことんまで話をしようじゃねえか」
「暇じゃない。お前は具合が悪くて会社を休んだんだぞ?」
「だから、ただの寝不足だっての。大袈裟にしたのはアンタだろ」
 反論したオレに、相澤は腕を組み、壁に背中をつけて寄りかかる。
 座ればいいのにとは思ったが、「そこに座れよ」といちいち促すのもおかしいと思い、相澤の好きにさせておく。
 立ったままの相澤の姿を見つめ、なんとなく視線を下にずらして独り言のように呟く。
「……もう萎えたか」
「名取!!」
 広くはない部屋の中では、小さな声でもちゃんと相手の耳に届いてしまう。オレの発言を聞いた相澤は、また顔を赤くしていた。しかし、これは照れじゃなくて怒ってる。
「お前はどうしてそう、下品な方向にしか話をもっていけないんだ!」
「いや、なんとなく思ったから。別に、さっきの雰囲気のまんまだったらアンタとヤれたのに、なんて考えてなかったから安心しろ」
「考えてたから口に出たんだろ! 最低だな、お前!」
「そんな怒ることないだろ? てか、もしかしてさっきの【どうしたらいい】って、そういう意味だったりしたか?」
「まったく違う!」
 馬鹿名取! と罵られ、オレは思わず笑ってしまった。
 どんな時に自分は笑うんだろうかと考えてた矢先に笑ったという事実も相まって、しばらく笑が止まらなかった。
 オレのその様子を見た相澤は、とうとうオレがおかしくなったと思ったのか、ただ溜め息を吐いてその場に座りながらオレが治まるまで見ていた。その顔が穏やかに見えたのは、オレの錯覚なのかどうなのか。
 なんだか穏やかな時間が流れている。
 今朝なんてまるでこの世の終わりとでもいう風に落ちていたオレは、今では打って変わって声を出して笑ってる。
 今朝まで頭の中を支配していた考えは、本当に綺麗さっぱりなくなっている。
 本当の意味で問題が解決したとは、まだ言えない。まだまだ謎な部分は多いし、互いに納得をしていないことも多い。
 というか、問題は相澤の方なんだろう。オレは単純だからいいものの、相澤の方は、そう簡単に割り切ることができないだろうとオレは思っている。
 とりあえず、疑問は解消された。気持ちも伝えたし、伝わった。
 相澤は、相澤。過去のことはそれなりに受け止めなければいけないが、相澤は相澤なんだ。それがちゃんとわかってれば、ひとまず問題はないんじゃないだろうか。
 太陽の光が完全に天井に昇った真昼間。通常なら会社で仕事をしている時間に、相澤と二人で部屋の中にいるのはかなり妙な気分だが、これがオレたちの始まりの一日。
 今日からオレたちはただの会社の同僚じゃなくなる。
 いったいどんな風に変化するのか、明日からが楽しみだ。





【八話 あたらしい始まり END】