記憶の中にあるもの

ふかまる始まり 3

 まあ、相澤のことだからなんなく切り抜けられそうだが、もしものことがあったらどうなるんだろうか。
 ……想像することは恐ろしいが、ちょっと見てみたい気もしなくない。
 しかしこれはチャンスだ。もし、アイツがあの男と一緒に店から消えれば、オレの疑問は一気に解消される。
 男と姿を消すか、なにかアクションを起こしたらゲイ。いや違う。女との噂が目立っているから、バイか。
 やっとオレの疑問が解消される時がきた。そして、その疑問が解消されればオレも相澤の弱味を握ることができるし、自由の身になれる。
 ……そうだというのに、どうしてこんなに気に食わないんだ。
 気持ちがざわつく。イライラする。
 こんな気分になるなんておかしい。
 ……この、ざわつく気持ちの名前は、なんだ……?
 眉を潜めてグラスを傾けながら相澤を見ていると、相澤と目が合った。
 オレと目が合った相澤は一瞬眉を潜めると、すぐにニヤリとした笑みをつくった。
 ……なんだ。私はモテるだろうとでも言いたいのか? だからなんだ。オレの知ったことか。いくら複数の人間にモテようが、羨ましくもなんともない。オレが今モテたいのはただ一人――。
「いらっしゃいませ、新保さん」
 マスターの声に、相澤を見ていた視線を素早く躰ごと入り口の方に向けた。
「勉くん、久しぶり」
「名取さん! 逢いたかったよー!」
 店に新しく入って来たのは、オレが今、どうにかしてお付き合いをしたいと目ろんでいる新保勉くんだった。
 勉くんはすぐにオレのところに早足で来て座った。
 すごくいい笑顔。可愛すぎる。
 さっきまで相澤を見て嫌な気持ちになっていたが、勉くんの姿を見たらそんな気持ちはどこかへ吹っ飛んでいった。
 勉くんはオレの天使だと言っても過言はない。姿を見ただけで気持ちが浮上するんだ。天使以外の何者でもないだろう。
「……名取さん、お顔が緩みすぎですよ」
「失礼……」
 マスターに小声で指摘され、グラスを傾けてから顔をリセットする。
 幸いなことに緩んでいた顔は、勉くんに目撃されることはなかった。よかった。相澤の話をしてしまった時点でオレの無様な一面を見られてしまったわけだが、これ以上勉くんにオレの悪い印象を与えるわけにはいかないからな。
 あと一歩のところまできてるんだ。勉くんと出逢ってから清い関係を築いて、紳士に振舞ってるのは、誰以来かもわからない。ここまでしているのは、オレが本気な証拠。
 ここまで来ているのに、相澤にぶち壊されるのだけは阻止しなければ。
「名取さん、どうかしたの?」
「あ? いや、別になんでもないよ。ちょっと、勉くんに見惚れてただけ」
「やだなー、名取さん。口が上手いんだから。そんなこと言っても、なにも奢ってあげないよ?」
 可愛く、癒される笑顔でオレの腕を軽くタッチしてくる勉くん。顔を元に戻したばかりなのに、また緩んでしまいそうになった。気合を入れて顔を引き締めると、勉くんに笑顔を向ける。
「名取さん、あんまり来てなかったみたいだけど、最近なにしてたの? おれ、名取さんに逢いたくて通ってるのに、寂しかったんだよ? あ、もちろん、マスターにも逢いに来てるからね!」
「それはありがとうございます。その様なことを言っていただけるなんて、マスターをしていてよかったです」
 勉くんの前にハイボールを置いたマスターは、勉くんに話を振られ、驚くでもなくいつもと変わらぬ調子で答える。
「ところでさ、名取さん、これから時間ある? もし大丈夫だったら、おれの話聞いてくれないかな……?」
「あ、と……」
 上目遣いで訊いてきた勉くんに、オレは返事に詰まってしまった。
 話を聞きたいのは山々だが、今日オレは一人で来ているわけではない。別行動を取っているといっても、今のオレの時間は相澤に握られている。オレがうんと言っても、相澤が許可しなければ意味はない。
 許可を取ったら、アイツはどんな返事をするだろうか。そんなことを考えながら相澤の方に視線をやれば、相澤はまだあの男たちと会話を楽しんでいた。
 どうやらアイツは、オレが勉くんと話をしていることに気づいていないみたいだ。あの調子なら、もしかして今日のオレは自由なのか? それなら、満足いくまで勉くんと話をしてもいいんだな。
 そうだとわかったら、テンションが上昇していった。相澤を完全に視界から外し、勉くんに向き合う。
「いいよ。今日は、とことんまで付き合ってあげる」
「本当! よかったー。おれ、名取さんに話したいことがたくさんあったんだー」
 笑顔で勉くんに答えれば、勉くんは心底嬉しそうに破顔した。
 うん、やっぱり天使の笑顔。今まで逢えなかった分、たっぷりと勉くん補給をさせてもらおう。
 嬉しそうに勉くんが話を始めると、マスターは自然な動きでオレたちの前から移動して行った。去り際に、頑張ってくださいとでも言ってくれているような目配せに、ちょっと頷いてから、勉くんとの会話を楽しんだ。
 最近なにがあったとか、大学でなにをしているだとか、日常についての話だったが、楽しそうに話をする勉くんを見ながら聞いていると、まるでオレもそれを体感しているみたいで楽しくなってきた。
 このまま時間が進まず、彼とずっと話していられたらいいのにと思っていた時、急に現実に引き戻された。
「ねえ、名取さん。あの人、ずっと名取さんのこと見てるんだけど、知り合い?」
「ん?」
「ほらあそこ。なんか、見てるっていうより、睨んでる感じかな。やな感じ」
 可愛い顔を顰めながら見ている視線の先に顔を向ければ、その先には相澤がいた。
 せっかくアイツのことを忘れて、天使との至福の時間の中にいたのに、まさかその天使によって現実に戻されることになるとは思いもよらなかった。
 天使も時には残酷になってしまうということか。
 そして、天使を残酷にさせた人物は、相澤の奴。
 しかし、オレが相澤の方を見れば、相澤はオレのことなんて見ていなくて、男たちと会話をしていた。勉くんはアイツがオレのことを睨んでると言っていたのに、どういうことだ? 勉くんが見たのは、偶然だったんだろうか。
 首を傾げながら勉くんの方に目を戻すと、勉くんは相澤を見続けていた。
 ……勉くん、険しい顔をしてるな。
「勉くん?」
「ねえ名取さん、あの人きっと、名取さんのこと狙ってるんだよ」
「ぶっ!? な、なに言ってんだ!? アイツがオレのことを狙うとか、ありえないからな!? アイツはオレのことなんて範囲外だろうし、ていうか、アイツノンケの可能性高いんだぞ!?」
「……あの人、名取さんの知り合いなの……?」
 勉くんのとんでも発言に、動揺したオレの言葉に、勉くんは相澤から顔を戻してオレのことを伺うように見てくる。
 自分で掘った墓穴は、自分でフォローすることは不可能。それにオレは、言い訳をしようとすればする程穴を深くしていく人間だということは、相澤と会話をしていて学習していた。
 相澤に教えられたのは癪だが、そもそもの原因は、認めたくはないがオレにもあるわけだし、なんとも言えない。
 つい口に出してしまった、フォローもしようもない言葉に黙ったオレに、勉くんの疑いの眼差しが突き刺さる。
 勉くんはハイボールの入ったグラスを一気に呑み干すと、キッとオレを睨んだ。
「あの人が、前に名取さんの言ってた人?」
 初めて見る、迫力のある表情に一瞬怯んだ。
 天使の笑顔しか見たことのないオレは、勉くんの迫力に気圧されて頷いてしまった。
 天使天使と称していたが、やはり勉くんも立派な男。可愛いだけじゃない、雄の顔。
 険悪な雰囲気の時に不謹慎かもしれないが、ちょっと惚れ直してしまった。
 オレがそんなことを考えているなんて知る由もない勉くんは、頷いたオレを見て勢いよく立ち上がった。