記憶の中にあるもの

ふかまる始まり 4

 勉くんがなにを思って立ち上がったのか察しがついたオレは、慌てて勉くんの腕を掴む。
「名取さん、離して。あいつは名取さんが悩んでいる原因なんでしょ? そいつが今ここにいるのに、おれは黙って見てることなんて、できないよ!」
「勉くん……」
 ホントに、惚れ直す。男らしい。頼もしいことを言ってくれる。
 感動してうっかり腕を離してしまいそうになったが、寸でのところで掴み直す。
 ここで勉くんを相澤のところに行かせるわけにはいかない。嫌な予感がするっていうか、絶対に駄目だとオレの本能が告げていた。
 勉くんが相澤に酷いことを言われることが嫌なのか、相澤が勉くんに責められるのが嫌なのか。
 ……ん? なんでオレは相澤のことを心配してんだ?
 勉くんのことを心配するならまだしも、アイツのことを心配してやる義理なんて、オレにはないはずだろう。
「お二人とも、落ち着いてください。他のお客様方が見ています。注目を浴びるのは、名取さんのためにはなりませんよ、新保さん」
「マスター」
「……マスター」
 いつの間にかオレたちのところに移動して来ていたマスターに諭され、勉くんは渋々ながら座り直した。オレも彼の腕から手を離す。
 ふと視線を感じて後ろを向けば、相澤と目が合う。その目がオレになにかを訴えかけているように感じたが、アイツがオレに用なんてないだろうと考え直して躰を戻す。
 きっと相澤も他の客と同様に、急に立ち上がった勉くんに驚いてコッチを見ていたに過ぎない。
 ちょっとオレは、相澤に過敏になり過ぎてるのかもしれない。
 今、オレは勉くんとの時間を過ごしている。
 今、相澤はあの男たちとの時間を過ごしている。
 オレと相澤は、同じ空間にこそいるが、別々の時間を過ごしているんだ。
 週末の時間に自由でいられることなんて、滅多にないことなんだから、相澤のことは考えないようにしないと。
 意識して相澤のことを頭の中から追い出すと、勉くんの様子を伺う。
 勉くんはマスターに言われてなんとか自分を抑えてるみたいだが、彼の中に生まれている怒りは治まっているようには見えない。
「……マスター、どうして止めたの……?」
 なにか言葉をかけないとと思っていたのに、先に勉くんが棘のある声でマスターに問いかけた。
「店内でのお客様同士のトラブルを未然に防ぐのは、店主として当然のことです」
「おれは、トラブルなんて起こすつもりなんかなかったよ。ただ、あの人に訊きたいことがあっただけだもん」
「そうだったんですか、失礼しました。新保さんの先ほどの雰囲気から察するに、彼に喧嘩を売ろうとしているのかと思ったのですが、俺の勘違いだったみたいですね。年を取ってくると、どうも勘も鈍くなっていけない」
 口を尖らせて拗ねた口調で言った勉くんに、マスターは声の調子も表情もいつもの通りで答えた。
「ところで新保さん、君はあちらの彼になにを訊こうとしていたのですか?」
「マスターには関係ないでしょ」
「俺には関係なくとも、名取さんにはありますよね? 名取さんのためを思って行動するなら、ちゃんと彼の意見も訊かなくてはならないのでは?」
「……そう、かも知れないけど、なんか、それは違う気もする……」
 諭すように落ち着いたトーンで言うマスターに、勉くんの声と醸し出されていた雰囲気がようやく小さくなっていく。
 さっきは相澤を見て、ついカッと頭に血が昇っていただけなんだろう。今はもう冷静になったみたいだ。
 あの男らしい、勇ましい勉くんも格好いいと思うが、やっぱりいつもの勉くんの方がオレは好きだ。
 ……って、今はオレの好みなんてどうでもいいんだった。
「勉くんは、アイツになにを訊こうとしてたんだ? オレに答えられることならなんでも答えるから、言ってみてくれないかな?」
 オレが答えられる範囲のことだったら、始めから訊いてくれてただろうってことはわかる。ということは、勉くんが相澤に訊きたかったことは、オレには答えることができないこと。
 そうだとわかっていながらも訊いたのは、マスターがきっとそうしろという意味で言ったんだと思ったから。
 マスターのことだから、オレが訊くことによってなにか解決策が見出せると踏んだんだろうが、果たして俺がそこまで頭が回るかどうか。
 ……いちおう、考えあってのことなんだよな。騒ぎになるのが嫌だっただけとか、そういうんじゃないよな?
 その可能性がまったくないとは言い切れず、マスターを伺ってみるが、当のマスターはオレたちの方は見ずに黙々とグラスを磨いていた。
 いつもの営業スマイル。まったく真意の読めない表情。
「……名取さんは、あの人のことどう思ってるの?」
 オレがマスターに疑いの眼差しを向けていると、勉くんが手元に視線を落としたまま訊いてきた。
 とりあえずマスターのことは信じることにして、勉くんに答える。
「どうって言われてもな……。アイツは会社の同僚で、気に食わない奴だな」
「気に食わないのに、どうして同じところにいて我慢できるの? 本当に嫌だったら、あの人がいるところにいつまでもいたりしないよね? あんなことがあった後だって言うのに、平気でいられるなんておかしいよ!」
「それはもっともなんだけどな……」
 勉くんはもちろん、マスターもオレと相澤の間で交された条件のことを知らない。
 今さら条件のことを隠しておく必要もないだろうが、相澤が同じ空間にいるところで話すことは躊躇われた。
 それにこれ以上、自業自得の結果について、いらない心配をかけたくはない。
 条件のことを話さずに、なんとか勉くんに納得をしてもらうにはどう話しをしたらいいものか。
「……あのな、勉くん。確かにアイツと同じ空間にいるのは嫌だが、オレはマスターの店に来たんであって、アイツがいようがいまいが関係ないんだ。今日は、偶然一緒になっただけなんだ。アイツもオレも互いに干渉はしてないし、いないものと思ってる。勉くんが心を痛めてくれるのはありがたいけれど、アイツのことなんて気にしないで、オレと楽しい時間を過ごそう?」
 我ながら苦しい言い訳だが、これ以上の言葉はオレには思いつかない。なんとか、これで納得してくれないだろうか。
 ……まあ、マスターはオレと相澤が一緒に店に入ってきたのを知っているわけなので、この話の内容がウソだってのはバレバレなんだろうが、マスターはなにも言ってこない。きっとオレの心境を察してくれてあえて黙っていてくれてるんだろう。後でマスターにちゃんと礼を言わなければいけないな。
 そして、勉くんからどんな返事が返ってくるかと反応を伺うが、勉くんは、果たしてちゃんとオレの話を聞いてくれていたんだろうかというくらいの無反応だった。
 やっぱり、苦しすぎたんだろうか。ウソだってことが、バレてしまったのか。
「……勉くん……?」
 手元をジッと見つめている勉くんに声をかけるが、やはり無反応。
 いったいどうしてしまったのか。さっきの言葉の中に、勉くんを不快にさせることがあったんだろうか。
 勉くんの無反応に対応に困ってしまうが、だからといってこれ以上なにかを言おうものならボロを出してしまいかねないため、なにも言うことができない。今は勉くんの反応を待つことにした。
 もしかしたら、またさっきみたいに、いきなり立ち上がったりすることがあるかもしれないと、警戒をしながら勉くんを見続けていると、ようやく勉くんは口を開いた。
「…………信じて、いいんだよね……?」
「ああ……」
 一瞬、なにを? なんて無粋なことを訊いてしまいそうになったが、短く返事をした。
 オレの返事を聞いた勉くんは、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐオレを見てきた。
 真っ直ぐな、純粋な瞳。言葉の通り、オレを信じるよと言ってくれている瞳に、罪悪感が込み上げてくる。
 しかし、ここで感情を表に出してしまったら、勉くんのことを裏切ることになってしまう。
 わかりやすいオレだからこそ、こういう時はちゃんと意識して表情を作らなければならない。
 真っ直ぐ見てくる勉くんと、しばらくの間見つめ合う。