記憶の中にあるもの

ふかまる始まり 5

 そして、ようやく自分の中で納得をすることができたのか、勉くんが大きく息を吐きながらオレから視線を外した。
 オレも内心大きく息を吐く。
「名取さん、ちょっとトイレ行ってくるね」
「ああ、わかった」
 険しかった表情は元に戻り、柔らかい笑顔を浮かべてから勉くんは席を立った。
 トイレへと消えていく勉くんの背中を目で追いかけてから、これでひとまず安心かなと安堵の息を吐きながらウイスキーに口をつけた。
「……今のところは逃げ切ることができた、といったところでしょうか。しかし名取さん、よくとっさに言うことができましたね」
 勉くんの姿が完全に見えなくなった時、それまで口を挟むことをしなかったマスターが磨いていたグラスを置き、声を潜めて言った。
「やっぱり、マスターにはウソをついたってバレてますよね……」
「ええまあ、名取さんと彼がご一緒に来店されたのは、知っていますからね。嘘の苦手な名取さんが、嘘をついたんです。そこにはちゃんとした理由があるんでしょう」
「ちょっと、あって……」
「話したくないことならば、無理に話さなくても結構ですよ。もちろん大いに気になりますが、お客様のプライベートに踏み込むことはしません。しかし、名取さんがぜひ聞いてくれとおっしゃってくれるのなら、お聞きしますが? いかがいたしましょう」
 ニヤリと言ったマスターに、オレは苦笑する。
「それよりも名取さん、貴方と一緒に来られた彼、以前にここに来たことはありますか?」
「アイツが? ……いや、ないと思うけど。ここに来るって言った時もそんなこと言ってなかったし、それにアイツは一応ノンケだよマスター」
「そう、ですか……」
 目を細めながら相澤の方を見るマスターに、相澤のなにが気になっているんだろうかと思いながら首を傾げる。
 マスターは相澤のことをどこかで見たことでもあるんだろうか。それとも、アイツに一目惚れをしたとか?
 ……いや、それはありえないか。マスターには恋人いるし。
「名取さん、彼の名前を教えていただけますか?」
「名前? 相澤保弘です。……けど、なんで名前なんて?」
「いえ、彼がここを気に入ってくださって、再度来店なってくださる可能性もあるではないですか。ですから、お名前を伺っておこうと思いまして」
 マスターはオレの問いかけに相澤から視線を外し、笑顔で答えた。
 アイツが常連になる可能性は、オレにはないように思えたが、マスターにはその可能性を見言い出すことができたのかもしれない。それもマスターの直感というやつなんだろうか。
 疑問は残るが、マスターがそうだというなら、そう納得をしておく。
「新保さんがお戻りになりますよ」
 そう言われトイレの方に目をやれば、確かに勉くんがトイレから出てきたところだった。
 しかし、さっきも今もマスターの顔は正面を向いている。トイレの方向はマスターの視界には入っていないはずなのに、どうして勉くんが戻ってくるってわかったんだ?
「地獄耳? それとも、顔の横に目でもついてる?」
「なんの話をなさっているのかはわかりませんが、名取さんは俺のことを化け物かなにかかと思っている、という解釈でよろしいですか?」
「え? いや、そんなことはないです! マスターはとても素敵な方ですよ!」
「ありがとうございます。……しかし、実は俺、人間ではないんですよ」
「…………へ?」
「生まれた時がいつなのかわからない。いつからこの世に存在しているのかもわからない。自分の年齢がわからない。両親が存在するのかもわからない。俺の血液がちゃんと赤いのかもわからない。唯一わかっていることといったら、俺がこの店の店主だということなんです」
「……冗談、じゃなくて……?」
 あまりにも真剣な顔で語るマスターに、冗談だろうと笑い飛ばすことができなかった。
 しかし、もしマスターの言う通りだとしたら、納得のいく点もあるわけで。まさか全部本当ということはないだろうが、半分くらいそうだったりしそうだ。
 真相はどうなんだろうかとマスターをジッと見ていると、戻ってきた勉くんが隣に座り、オレとマスターを交互に見て首を傾げた。
「どうかしたの?」
「名取さんで遊んでいたところです」
「は!? やっぱり、遊ばれてたのか!? ってことは、全部ウソ?」
「さあ。それは、俺にしかわからないことですから、なんとも言いようはありませんね」
「マスターがわかってるなら、言いようがないわけないだろ!」
「そうですね。では、冗談半分ということで」
「半分が冗談なのか!? それとも冗談半分で言ってみただけ!?」
「ご想像にお任せいたします。そんなことよりお二人とも、これからどうなさりますか? もう遅い時間ですが、明日はお二人ともお休みですし、もう少し呑んで行かれますか?」
「ちょっとマスター! 話はまだ終わってないから!」
 食い下がるオレに、マスターは微笑んだだけでなにも答えてくれない。
 きっと冗談での話なんだろうということはわかってはいるが、微妙なはぐらかし方をされると、余計に気になってしまう。
「名取さん落ち着いてよ。マスターの性格は、おれはまだまだよくわからないところがあるけれど、名取さんはわかってるんでしょ?」
「なにを言う勉くん。オレだってわからないことだらけだ。掴みどころがない人っていうことと、苛めっ子だってことはわかるけど」
「好きな子ほど、苛めたくなるものですよね」
 不貞腐れるオレ、オレを宥める勉くん、話をややこしくしようとするマスター。
 さっきまでの暗い雰囲気が一気に元通りになっていた。
 これはマスターの計算通りなのか、それとも、そういった計算は含まれていなかったのかはわからないが、とにかくマスターのおかげで元に戻ることができた。
「なーとりさん、機嫌直してよー」
 オレを宥めようと腕を絡めてくる勉くんの感触に、顔が緩む。
「……現金ですね」
「なにか言いましたか、マスター」
「いいえ。仲睦まじきことはよいことです。ではお二人は、まだお呑みになりますか? それとも、これからデートにでもお出かけですか?」
「あー……、そうしたい気持ちもあるんだけど……」
「デート! 初デート! これが、店外デートっていうやつ?」
「新保さん、そのようにおっしゃられると俺の店がそういう店だって思われてしまうので、止めていただけますか」
「あー、そうか。ごめんなさい、マスター」
「マスターなら、そういう店も経営してそうだけど」
「なにか言いましたか、名取さん」
「いいえ」
 それにしても、デートか。勉くんとは店以外で逢うことはなかったから、とても魅力的な提案ではあるんだが……。頷いてしまおうかと思いながら、チラリと視線を奥の席に向ける。
 ……あれ、アイツいつの間に一人になってたんだ?
 ついさっきまで相澤の周りにいた男たちは相澤から離れ、別の相手と呑んでいた。相澤は一人で同じ席に座ったまま、酒を呑み続けている。……しかも、コッチを凝視してる。目が合った。……顎で入り口を差された。