記憶の中にあるもの

ふかまる始まり 6

 帰るぞってことか。そういうことなのか。顎ですんじゃねえよ!
 頬を引きつらせながら視線を戻すと、グラスの中身を呑み干す。
「……勉くん、ごめんな。オレ、明日予定があるからもう帰らないと」
「えー。おれ、名取さんとデートしたいのにー」
 断るオレに、勉くんは絡めていた腕に力を込めた。
 密着する、柔らかい感触。なんて幸せな感触なんだろうか。こんな時じゃなかったら、この時間を堪能することができるのに、なんて悔しいんだ。相澤なんかの疑問を晴らすためだけにココに来た自分を呪いたい。
 次にこんな機会がきたら、絶対に逃さない。そんな決意を固めながら、残念な気持ちいっぱいに勉くんの腕を軽く叩きながら勉くんから離れた。
「うーん。残念だけど、名取さんを困らせたくないから。また、今度ね」
「ホントごめんな、勉くん」
「いいよ。今度、絶対だからね」
「ああ、約束する」
 ひとまず勉くんのことは一件落着したとして、問題はどう帰ればいいのかということ。
 相澤に顎で入り口を差されたが、一緒に店を出るわけにもいかない。そんなことをしたら、勉くんに吐いたウソが台無しになってしまうし、勉くんを傷つけることになる。
 オレが先に店を出れば、アイツは着いてくるのか? メールでも入れておくか。
「……十分後くらいなら、違和感はありませんよね」
「え……?」
 携帯を取り出し、メールを起動させた時、マスターがオレだけに聞こえる声で訊いてきた。
「彼のことを気になされているのですよね。俺に任せていただけますか?」
「いいんですか?」
「ええ。その方がよろしいかと」
 マスターはそう言いながら、会計を始めた。
 オレはマスターの行為に甘えることにして、会計を済ませて立ち上がると、オレを見上げてくる勉くんを軽く叩いてから歩き出す。
 外に出る時チラリと相澤を見てから、先に出ると、さっきのアイツのように顎で示してから外に出たのだった。




 店の階段を上ったところで待っていると、丁度十分後に相澤が中から出てきた。
 店から出てきた相澤の顔は、どこか固く険しいものだった。
 呑みすぎて具合が悪くなったのかと訊いても、曖昧な返事が返ってくるだけで、どうも様子がおかしい。
 しかし相手は相澤。きっと、バーの雰囲気に気圧されたんだろうと、オレはそれ以上気にかけることもなく、先に歩き出した相澤の背中を追って歩き出す。
 それからオレたちは、なんの会話もすることもなく、駅までの道を並んで歩いた。
 これからどうするのか、オレはどうしたいいのかと考えながら駅まで着けば、「また月曜に会社で」とだけ残し、相澤は改札をくぐって行ったのだった。
 最近のアイツの行動からは想像もつかないくらい、あっさりとした態度に拍子抜けしながらもすぐに開放された嬉しさに、特に相澤の様子の変化に疑問を持つことはせず、相澤がノンケではないのかという疑問は結局わからなかったなと思いながら、オレも帰路に着いた。
 しかしこの時、ちゃんと追及しなかったことを、オレは後で後悔することになる。
 オレがもう少し、他人の変化に敏感だったら。
 オレがもう少し、相澤のことを理解していれば、モヤモヤとした不可解な気持ちに囚われることも、なかったのかもしれない――。





【四話 ふかまる始まり END】