記憶の中にあるもの

きもちの始まり



 相澤の真相を確かめるためにOn-ikUに行った次の週から、アイツがおかしくなった。
 おかしくなったと言っても、相澤の性格が壊れたとか、見た目に変化が現れたとか、そういう意味ではない。
 おかしくなった点は一つだけ。――オレに対して、妙によそよそしくなった。
 というか、態度がほぼ、あの朝の事件が起きた以前のものに戻ったみたいだった。
 会社での会話は無くなった。メールも電話も、例外なくまったくしなくなった。
 そしてなにより、条件が行われなくなった――。
「まあ、それは願ったり叶ったりなんだけどよ……」
 なんの音沙汰も無く相澤と週末に逢うことがなくなった、二週目の金曜日。就業後のオフィスで、オレはぼんやりと席に座っていた。
 相澤は当たり前のごとく、もういない。言葉を交わすことなんてもっての他、目さえも合わさずにとっとと帰ってしまった。
 早々に帰宅した相澤に対して、オレはぼんやりと席に座ってなにをしているのかというと。先週はさっさと帰ってのんびりと過ごしていたが、今日は残業もないのに会社に残っていた。
 先週は『やった! 開放された! オレは自由だ!』と喜んでいたのだが、なんというか今日は先週みたいに喜ぶことができないでいた。
 二ヶ月以上も、アイツと一緒に週末を過ごしていたせいで、それは習慣に近いものになってしまっていた。あんなに嫌だと思っていたのに、無くなったら無くなったで、変な違和感を感じていた。
 習慣というのは恐ろしい。ちょっと慣れてしまうと、それがないと心のバランスが取れなくなる。
 元通りに戻ってしまえばなんの問題もないんだろうが、二ヶ月で身についたものが二週間で直るわけもなく、アパートに帰る気もOn-ikUに行く気にもなれず、まだ残業をしている人間からしたら鬱陶しい存在かもしれないが、こうしてダラダラとしているわけだった。
 自由になったことに対して不満はないんだが、疑問はある。条件が実行されなくなって、約束はどうなったんだろうかという疑問。
 向こうが勝手に止めたんだから、約束が破られることはないと思っていていいのか? どうなんだ、そこんとこは。
 オレの中で重要なことなんだが、アイツと話す気になんてならないし、しつこく訊いて約束を破棄されては元も子もない。
 この場合の正しい対処の仕方は、なんなんだろう。どういった理由で始められたのかわからない条件が、どういった理由で終わったのかわからない。そんなものにそもそも、対処法なんてものがそんざいしているんだろうか。
 相澤がなにを考えているのかわからない。
 オレが今の状態を不満に思っている理由もわからない。
 動きたいのか、動きたくないのかもわからない。
 わからないことばかり。相澤なら、答えは知っているんだろうか。まあ、知らないとしても、オレの頭の中を整理することのできるなにかを、持っていそうな気はする。
 ……メールでも、するか……? ……電話? それとも、来週まで待つか……?
「尻込みするっていうか、なんかわからんが怖いな……」
 携帯を開き、相澤の番号を眺めながら、後一歩ボタンを押す勇気がなくて、画面を睨み続ける。
 すると――。
「名取さん。仕事もせずにいつまでも唸っているなら、帰ったらどうなんですか? 一人でぶつぶつ言ってる名取さんの方が、怖いです」
 残業をしていた一人、オレの前のデスクに座っている後輩に、冷たい声で言われた。
 先輩に対して冷たいんじゃないかと思ったが、仕事をしている彼にとって、なにもせずにぼけっとしているオレは、目障りに感じるんだろう。
 後輩に疎ましく思われる先輩。……寂しい先輩にはなりたくない。
 オレはそう思うと、携帯を閉じてポケットに仕舞う。
「お邪魔虫はとっとと退散しますよー」
「……別に、邪魔ではないですが、今週ずっと様子がおかしくお疲れのようだったので、早く帰って休まれた方がいいんじゃないかと思いまして」
「オマエ……。オレは素晴らしい後輩を持てて嬉しいぞ! ハグしたい!」
「遠慮させてもらいます。お気持ちだけで充分ですから。まあ、先輩が美人な女性だったら話は別ですが」
「オレも美人だろ? 女じゃないけど」
「自分で自分のことを美人だなんて、先輩、本当に頭大丈夫ですか?」
「頭がおかしいとかいったな!? 当ってるが、そういうことはオブラートに包んで言え!」
「……包めば、言ってもいいんですか?」
「日本人ってのは、言いたいことをやんわりとした言葉に変えて言うもんだろうが」
「まあ、そう言われてみればそうですが……。なんていうか、お疲れ様でした……」
 後輩に痛いところを突かれ、自覚は無かったが周りにも悟られるくらいの変化をきたしていたことにショックを受けたオレは、普段以上に普段らしく振舞おうとした結果、後輩に哀れみの視線を向けられてしまった。
 周りに感づかれる振る舞いをしてしまっていたオレ自身もショックだが、こうも可哀想な人を見るような目をされるのはもっとショックだ。
 わかってはいたが、そうとうオレは馬鹿なんだと思ってしまった。
 悲しい現実に、向かい合ってしまいました。
 そんなことを思い肩を落としていると、後輩はもう仕事の続きに取り掛かっていた。『お疲れ様でした』その言葉を最後に、オレの方を見向きもしなくなっていた。
 すぐに取り掛からなければいけない仕事だったのか、それとも単にオレが鬱陶しくなったのか。後輩に明らかに無視をされたオレは、もうそれ以上この場にいることはできないかもと感じさせられた。
 もう少し話でもしたいかと思ったが、そういうわけにはいかない。仕事もしないで居座っているだけの人間は、そろそろこの場から退散するべきだろう。
 真剣にパソコンの画面と睨めっこしている後輩を見ながら、すでに帰り支度をしてあったオレは、鞄を持って立ち去ることにした。
「お疲れさん。あんま根詰めすぎんなよ」
「先輩こそ、途中で行き倒れずに、ちゃんと家に帰ってくださいよ」
「どーも」
 パソコンから視線を逸らすことなく言った後輩に背を向け、オレは出て行った。
 仕事場にいてもそうだが、アパートに帰ったところですることはない。
 家に、暇を潰すものがなにもないわけじゃない。ゲームだってあるし、まだ読んでいない本だってある。洗濯もしなければいけない。だが、なにかする気はまったく起きないわけであって。
 今までオレは、週末にどう過ごしていたっけかなんて考えてみれば、On-ikUにばかり行っていたかなということくらいしか思いつかない。
「バーにも行きたくないけど……。行きたくないっていうか、行きにくいっていうか……」
 廊下に誰もいないからといって、独り言を呟きながら歩くっていうのは、はたから見たらおかしな風に映るんだろう。
 どうせなら誰かに遭遇して、独り言を言っている場面でも目撃されて、哀れな視線を送られた方が、惨めさは減るだろうか。
 そんなことを思いながらエレベーターに乗り、一階へのボタンを押す。
 無機質なエレベーターの稼動音を聞きながら、閉鎖された空間を見渡す。
 毎日乗っているから、なんの目新しいものもない。近日開催されるどこかの課の宣伝ポスターや、エレベーターを安全に使用するための注意書き、どこか得意先のものだろうというポスター。そんなものを一通り見てから、上を見上げ、表示されている階に目をやる。
 ――三階。
 ――二階。
 ――一階。
 あっという間に目的の階に着き、扉が開く。特に意味もなく溜め息を吐きながら、狭い箱の中から出た。そしてすぐに、側にあった柱に隠れた。