記憶の中にあるもの
ぎもんの始まり 2
考えながらつい口にしてしまってハッとしたが、後輩くんなら軽く流してくれるだろうと信じた。
「そうですね……。先輩が、俺より背が低くて、可愛くて、女の子なら考えなくもないですよ」
案の定、呆れた顔をしてなにも追及することのなかった後輩に、安堵した。
まあ、普通はあの発言だけでオレがそっちだってわかることはないだろう。
「ああ、そっか。オレの方が後輩くんより背も高いし、格好いいし、いい男だもんな」
「……何気無く、俺のことを貶しましたか……?」
「そんなことはない。……それより、悪かったな、変な話につき合わせて」
「いえ、別に。先輩の貴重な話が聞けて、楽しかったですから。後でなにか奢ってください」
「それじゃあ、自販機に新しく出てた【杏レモン】を奢ってやろう」
「……美味いんですか、それ」
「知らん。オレは飲みたいとは思わないからな」
「そんな物を人に買おうとしないでくださいよ」
「いやいや。案外美味いかも知れないだろ? この前部長が買ってるの見たけど」
「ぶ、部長がですか……? えと、俺は……遠慮しておきます」
「そか? ……さあて、後輩くんより早く仕事終わらせて帰ろうかな」
「……絶対先輩より早く終わらせる……」
話はこれで終わりと言わんばかりに仕事に戻ったオレに倣い、後輩もパソコンに向き直った。
後輩と話したことにより、なにかが見えて気がしたが、解決をしたとは言えなかった。それでも気分は話す前よりも幾分か楽になったので、話に付き合ってくれた後輩に感謝する。
気分が晴れたのは確かなんだが、思ったように指は動かない。このままでいくと、宣言とは反対に、オレの方が遅くなりそうだ……。
結局、後輩の方が先に帰る結果になった。
去り際に後輩が言った、「俺、先輩に初めて勝ちました」という言葉に、苦笑でなく本当に笑った。
一人になると、手はいっそう遅くなる。現在このフロアに残っているのはオレだけ。いつまでも、残ってるわけにはいかない。
「まあ、帰ったところで、飯食って寝るだけなんだけど」
それだけだし、それに今のオレの部屋は相澤によって清掃をされた時のまま。その空間にいるのは妙な気がしてならなかったが、意味もなく汚す気にもならずに現状維持をしてある。
しかし、わかっていたことだが、綺麗な部屋は過ごしやすいもんだ。これからはオレも心を入れ替えて、少しは掃除でもしようかな。……部屋の掃除しようと思うなんて、何年ぶりだろう。
「おや、まだ人がいらっしゃったんですね」
仕事とは関係ないことを考えていると、開きっぱなしになっている入り口の方から声がした。誰か忘れ物でもして戻ってきたのかと思い振り返ったオレは、声を発した人間を見て思い切り眉を顰めた。
入り口に立っていたのは、警備員。それも、土曜に逢ったばかりのあの潤次という男だった。
「お仕事熱心な方だったんですね、名取さん。ああ、おかしな誤解はしないでください。なにも、あなたが不真面目そうな方だと思って言ったわけではありません。ただ、あなたは要領良く仕事をこなしていそうな方なので、こんな時間までしているとは、相当今回の企画だかに力を入れているんだなと思いまして。嫌味でもなんでもなく、ただ感心していたんですよ」
……やっぱり、口を挟む隙を与えない話し方をするのは、コイツの普通だったのか。
どうしてここにいるんだと馬鹿な質問をしそうになったが、彼はここの会社の警備員だったということをすぐに思い出した。だから、ここに現れてもそんなに不思議じゃない。……しかし、風汰にだって滅多に逢うことはないのに、どうしてよりによって逢いたくないと思っていたこの男に逢うんだ。
残業なんてするんじゃなかったと思うが、こればかりは自業自得なのでどうしようもない。
しかし、初対面も同然のコイツは、なんでこんなにも馴れ馴れしく話しかけてくるんだ。なぜ中に入ってくる。近寄って来るなこの野郎。
「おや、僕のこと、警戒なさっていますか? それならば要らぬ心配ですよ。以前にも言った通り、僕はあなたに危害を加えることはありませんから。保弘さんになにもするなと言われていますからね。まあ、そもそも僕とあなたは関係のない人間ですので、僕がなにかをしたところで、僕が得をすることはありませんから無駄なことはしませんが。しかしまあ、僕になにも得がなくても、保弘さんには得になるのかもしれません。それならば、僕はなにかアクションをおこした方が賢明なのではと思い始めているところです」
そんなに一気に言われても、処理が間に合わない。こんな風に矢継ぎ早に言われては、誰だって瞬時に理解することは難しいはずだ。
こんな奴と友達になるのは、難しそうだ。そもそも友達なんて願い下げだが。
「……それで、オレになんか用か?」
「用事ですか? ここに来たのはただ巡回をしていたからなので、これといった用事はありません。ここにあなたがいると知っていて来たわけではありませんから。明かりの点いていた部屋を覗いたら、偶然、偶々、図らずもあなたがいた。本当は逢いたくはなかったんですけどね」
「…………、……あ、そ」
大袈裟に溜め息を吐きながら言った男に、切れそうになりながらも拳を固めて堪える。
逢いたくなかったのなら、話しなんてしてないでさっさと立ち去ればいいのに、わざわざ中に入ってくるなんて、どうかしてる。
「名取さん、質問をしてもいいですか?」
「……オレに用事はなかったんじゃないのか」
近くで立ち止まった男に、訝しげな視線を返す。そしてすぐに視線を逸らすと、止まっていた手を動かし始めた。
男のことを無視して仕事を再開させたオレに、男はなにがおかしいのか小さく笑ってから、オレの隣に座った。
いったいなにがしたいんだ。用事がないと、オレには逢いたくなかったと言っていたくせに、なんで隣に座るんだ。オレが話しを聞くまで、コイツは立ち去らないつもりなのか? 人のことを言えたもんではないが、仕事をしろ、仕事を。
横目でチラリと男を見れば、目が合った。なんでか知らないが、笑顔だ。爽やかすぎて不気味な、笑顔。
「…………。……なにが訊きたいんだ?」
「おや、いいんですか? てっきり、お仕事を優先させたいのかと。それなら、あなたの仕事が終わるまで待っていようと思ったのですが、あなたがいいと言うなら遠慮なく。それでは。……あなたは、これまでに付き合ってきた人間のことをちゃんと覚えていますか? と言いますか、その人の性格とか、顔もちろん覚えていますよね? それとも、あなたはそれらを覚えていない薄情な人間だったりしますか? もしかして、付き合ったことはないとか言っちゃいますか?」
「………………あ?」
いきなりすぎるほどいきなり問われた内容に、頭にいくつもの疑問符が浮かぶ。こんなことを訊いていた男の意図はなんだ。そんなことを訊いたところで、なにがわかるっていうんだ。
訝しげに男を見るが、男はオレの視線を受けても涼しい顔をして笑っているだけだった。
純粋な疑問なんだろうか。それとも、相澤のためにならなにかをすると言っていたから、これは相澤になにか関係があることなんだろうか。
考えても、笑っているだけの男の顔を見ても、なにを考えているのか掴めそうもない。
男から顔を背け、言われたことを頭の中で反芻させる。
男の口から出た言葉は、オレの中にある古い記憶と一致するような内容だった。あの言葉を言っていたのは、本当に誰だったのか。何度も思い出すんだから、相当オレの中に深い想いがあるはずなのに、ハッキリと思い出すことができない。
過去に付き合っていた奴が言ったということはわかる。だが、そいつがどんな奴だったのか、記憶に霞がかかっているみたいで曖昧だ。
思い出すことができないでいる時点で、男の言っている通りの人間なんだと痛感する。
……よく考えてみれば、オレは本気で誰かに惚れたことがないような気がする。今まで付き合ってきた人間は、大抵はその場だけだったり、なし崩しで付き合うことになったりという奴ばかりだった。そこに【好き】という感情があったかと言われたら、それは【多少】というレベルである。
Copyright(c) 2015 All rights reserved.