記憶の中にあるもの
へんかの始まり
とある週末、オレは不覚にも会社の飲み会で酒を飲みすぎてしまい、見知らぬ部屋で、まったく仲のよくない同僚の男と同じベッドで目を覚ました。そして、その男にゲイだということがバレてしまった。
オレの性癖を黙っていてくれる代わりに、ソイツは交換条件を突き出してきた。その条件の内容は、オレの週末の時間をアイツにやるということ。
なんでそんな変な条件を出してきたのか、わからない。その条件のどこに、アイツの言っていた【メリット】というものがあるのかも、わからない。
疑問ばかりが涌き上がってくる条件。だが、そんな条件でも、オレには頷く他に選択肢はなかったんだ。
「……なあアンタ、こんな風にオレと呑んでて、楽しいのか?」
「お前の嫌そうな顔を見るのは、楽しい」
「……嫌な奴」
先週の週明けの昼休みに呑んだ条件の通り、金曜の就業後からの時間を相澤と過ごすために、相澤の行きつけのバーに来ていた。
落ち着いた雰囲気の、ドレスコードは決まっていないシンプルなバー。オレたちが座っているスチールのイスも、他の対面になっているイスもすべてシルバーで、テーブルは漆黒で統一されている。
白と黒のタイル張りの壁には、装飾品はほとんどなく、ところどころに白い花瓶に入った色とりどりの花が飾られている程度。
あまりにもシンプルすぎて驚いたが、内装と店内に流れるジャズのBGM、バーに来ている客の雰囲気は嫌いじゃないと思った。
店に入ってからオレはジントニック、相澤はウイスキーソニックを飲みながら、特にこれといった会話もなく時間は過ぎていく。
しかしまあ、こいつはなにがしたいんだろうか。オレを呑みに誘ったって、楽しくもないだろうに。
グラスを傾けながらチラリと相澤を見る。
相澤はほとんど無表情で、今なにを考えてるのか全然わからない。企みがあるのか、それともただ単に呑みたいだけなのか。
「なあ、詳しく訊いてなかったんだが、週末の時間って、何時まで? 金曜の夜だけか? それともまさか、日曜までとか言うんじゃないだろうな?」
「それは、私の気分次第だ」
「あと、期間ってのはあんのか?」
「それも、私の気分次第だ」
「……適当すぎるだろうが。…………で、アンタはここによく来るのか?」
「まあな」
……会話が続かない。この条件は、相澤の気分次第で終わりになるといったが、それまでこの重苦しい時間を過ごさなければならないんだろうか。……そう考えると、眩暈がしてくる。
グラスを眺めながら重い溜め息を吐いた時、相澤がくつくつと笑い出した。
その笑い声を不審に思い、相澤を見れば目が合った。
「……なんだよ」
「いや、お前の反応が面白くてな。本当に考えてることが、よくわかる。そんなに警戒しなくても、なにも仕掛ける気はないから安心しろ」
「じゃあなんだ? アンタは、こんなギスギスした雰囲気を醸し出してんのは、オレを見て遊びたいだけだからってのか? そんでただ酒を呑んでるだけ。そこのどこに、メリットってもんが発生してんだ? まったく理解ができないんだが」
「お前に理解は求めていないから、理解されていなくても構いはしない」
「……………………」
相澤の人を小馬鹿にした言い方はかなり癪に障ったが、さすがにオレだってTPOは弁えている。なのでジンに口をつけながら、思いっきり相澤を睨むことに留めた。
相澤の言った通り、オレが理解しなくても問題はない。こんなことをするだけで黙っててもらえるなら、安いもんだと思っておかなければ。
……安い、のか? いや、ちゃんと安いか。ここの支払いも相澤が持つと言っていたし、空気は不快だがタダ酒を呑むことができるのは、喜ばしいことだ。
この状況をどう理解すればいいのかと、考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
なにも考えなくていいのか、それとも、ちゃんと考えておかなければいけないのか。どうなんだ? 考えないで流されていた方が、楽なのか?
「難しいことを考えるのは、お前らしくないぞ」
「あ?」
「いつも能天気で体当たり。頭でごちゃごちゃ考えるよりも、感じたまま直感で行動するのがお前だろう?」
「なんでアンタがそんなこと言うんだ?」
相澤の言葉に眉を潜めると、肩を竦めた。
「互いに会社に入社して五年。同じ時に入ってきて、それからずっと同じ部署。席も変わらず真後ろ同士。特にこれといった接点もなく、仲もよくないとしても、五年も一緒に仕事をしていれば、嫌でもその人間のことをわかるようになるだろう?」
「……そういうもんか……?」
相澤に言われて納得をしそうになったが、オレは相澤のことなんてまったく知らないし、他の同期の人間でもよくわからない奴もいる。
長く一緒にいれば、相澤の言う通り知らなくてもいいこと、知りたくもないことを自然とわかってしまうのかもしれない。しかし、そういうのはその人間のことを気にしているから、なんではないだろうか。
いくら一緒にいたとしても、さして興味もなければ情報なんて耳に入ってこないもんだろ。
実際、オレがそういう種類の人間なんだ。仕事で長い期間組んだり、個人的に濃い付き合いのある人間以外のことは、知りたいとは思わないし、興味なんてまったくない。
人間なんてそういうもんじゃないのか? と持論に首を傾げながら、ジンを口に含む。
「……お前は、自分以外には興味がなさそうだな。人の気持ちとか、考えたこととかないんじゃないか?」
「人の気持ち、ね……。そういうのって、オレが考えてみたところで、どうしようもないもんだろ。オレが『こいつはこういうこと考えてんのかな?』とか予想して動くのなんて、ただの自己満足だろ? 気持ちを勝手に押しつけられたって、迷惑なだけだ」
「そういう風に考える方がおかしい。誰だって、思いやってもらえたら嬉しいものだ。それが赤の他人からの好意だとしても、迷惑だなんて思わない」
オレの持論に、相澤はウイスキーの入ったグラスの淵を指でなぞりながら、声のトーンを落として言ってきた。
「アンタは、嬉しいのか? もしオレが、『疲れてるみたいだけど、大丈夫か?』とかアンタに向かって言ったら、なんだこいつ? みたいなことになるんじゃないのか?」
「思わないな。素直に、気遣ってくれたことに感謝する」
「ふーん……?」
グラスに注いでいた視線をオレに戻しながら、薄く微笑んだ相澤に、よく理解できないまま相槌をうった。
「…………まあ、人それぞれだからいいんじゃないか? 鈍感なのも個性の一つだ」
「オレのどこが鈍感だ」
「全部がそうだろう。人の気持ちが理解できないんじゃなくて、ただ単に気づくことができていないだけだ。察しが悪いんだ。そういう人間のことを、世の中の人は【鈍感】と呼ぶ」
「アンタは、オレを馬鹿にして楽しみたいんだったっけか……?」
「正解。鈍感なくせに、そういうところはちゃんとわかるんだな」
「アンタ本当に性格最悪だな」
「五年一緒に仕事をしてきて、今ようやく知ってもらうことができて光栄だ」
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