記憶の中にあるもの

きょうゆうの始まり 5

「それはちゃんと覚えてるんだな」
「………………」
 嫌味を含んだ相澤の言い方にムカッときたが、しょうが焼きを口に突っ込んで黙った。
「できれば私は、いい経験だったと思っていたいんだけど、駄目かな?」
「……アンタがそう思ってたいんなら、オレの口を出すことじゃねえだろ」
 相澤は魚定食の塩鮭を箸でつつきながら、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。
 あの時も時々していた相澤のおかしな表情。それが、オレになにかを訴えているように感じてしまうのは、気のせいなんだろうか。
 相澤のことを知らないから、そういう感じがするんだろうか。もしかしたら、ああいう顔をするのはコイツの【素】なのかも知れない。
 ……あ? なんでオレは、相澤のことを考えてるんだ? 今考えなきゃいけないことには、相澤も含まれているが、考えることが違う。
「おい名取、箸をねぶるのは止めろ。行儀が悪い」
「あ? ああ、悪い」
 相澤はオレのことを見ていないのに、マナーについて指摘され、素直に謝る。
「……名取、そろそろ本題に入ったらどうだ? 訊きたいことはまだ話していないんだろう? まさか、仲良く飯を食うのが目的だなんて、そんなことはないだろう」
 魚の身を綺麗に解し、皿を空にしていく相澤に言われ、周りに視線を巡らせる。皆が皆自分たちの会話に夢中になっていることを確認してから、口を開いた。
「……この間、釘を刺しておくのを忘れたんだが、その、オレがそういう奴だっての、会社には言わないでおいて、欲しいんだが……」
「ソッチの人間だってことをか?」
「……そうだ。頼む……」
 歯切れの悪いオレの頼みごとに、相澤は箸を置いて考える素振りを見せた。
「…………私が、言わないでおいてやるメリットはない」
「…………っ」
 言ってから箸を持ち直して最後の一口の鮭を口に放り込みながら言った相澤に、やっぱりと唇を噛んだ。
 まあ、オレだってただで聞いてくれるとは思ってはなかったけど、もしかしたらということもあると信じてたのに。しかし、現実はそううまくいくもんじゃないんだよな。厳しい。
「………………メリットって、なんだ……」
「メリットとは、功果、対価、功績、直接的な利点、という意味だ」
「そういうことを訊いてんじゃねえ!」
「知ってる」
「……アンタはなあ……」
 趣味か? コイツは人のことをおちょくるのが趣味なのか!? 絶対にわかってながらやってるよな!?
 一を言ったら十で返ってくる、嫌な奴。
 食後の茶を飲んでいる相澤に対し、まだ半分ほどしか食べていなかったオレは残りを喉にかっこみ皿を空にした。
「よく噛んで食べないと、消化に悪いぞ」
「うっせ」
 わざと音を立てて皿を盆の上に置くと、茶に口をつけてからスーツの上着から煙草の箱を取り出したて一本口に銜える。
「……煙草」
「なんだよ? ここは禁煙じゃねえだろ。それとも、嫌か?」
「いや、別にそういう意味ではない」
 また変な顔をした相澤。なんでそんな顔をするんだ、と思いながら火を点ける。そして、途切れていた会話を再開させた。
「……メリットがあれば……」
「ん?」
「アンタはその【メリット】というヤツがあれば、黙っていてくれんの、か……?」
「まあ、そういうことだな」
 茶を啜りながら頷いた相澤に、フィルターを噛む。
 交換条件。まあ、当たり前だな。妥当な話だと思う。しかし、やっかいなことになりそうな予感が、澄ました顔で茶を飲んでいる相澤からひしひしと伝わってくる。
 嫌な予感がするから条件は呑みたくないなんてわがままは、通じるわけも無い。そんなことを言って、会社にバラされてしまったら、オレの人生は終わる。会社にいづらくなって、最悪辞めるなんてことになってしまったら、最低なんて言葉では片づけられない。
 不景気の今、三十近いおっさんが再就職先を決めるのは難しい。職を失って肩を落とす自分の姿を想像してしまい、思い切り顔を顰めた。
 残りの煙草を肺の中に吸い込むと、灰皿に押しつける。息を吐き出してから、肺を空っぽにしてから意を決して条件を訊く。
「…………それで、なにが欲しいんだ……?」
「案外素直に聞いてくれるのか」
「オレにはそれ以外に道は残ってないだろうが……」
「自身の保身のためということか」
「当たり前。オレはオレ自身しかないんだ。自分のことを一番大事に思って、どこが悪い」
「…………自分だけが大事。……そうだな、お前らしくていいんじゃないのか?」
 変な顔再び。
 オレらしいってなんだ? なんでコイツは知ったような口を聞くんだろう。オレと相澤は他人のはずなのに。
「そんなに熱視線を送ってきて、どうかしたのか?」
「誰がそんなものを送るか。睨んでるって発想には至らないのかアンタは。……まあいい。さっさと条件とやらを言え」
「…………本当になんでもいいのか?」
「おう! 男に二言はねえぜ!」
 半ばヤケクソで胸を叩きながら言ったオレに、相澤は口の端を吊り上げた嫌な笑みつくった。そしてそんな笑顔を浮かべた相澤の口から出てきたのは、予想をしてもいなかったことだった。……いや、ある意味ではとんでもないものなのか?
「条件は、これからの週末のお前の時間を、私にくれないか?」
 ニヤリと笑った顔、綺麗に片づけられた定食の皿、まだまだ騒がしい店内、相澤の口から聞かされた条件に、オレはその言葉の意味もわからないまま頷いた。





【二話 きょうゆうの始まり END】