記憶の中にあるもの

きもちの始まり 4

 今日は一日晴れの予報だったから、夜まで放っておいても平気だな。
 床に置いてある物を慣れた足取りで踏まないように移動し、窓を開ける。新鮮な空気を肺の中に吸い込み、大きく吐き出す。深呼吸ではなく、溜め息。
 洗濯の中で一番嫌いなのは、干す時。シワを伸ばして、ハンガーにかけ、洗濯竿にかける。それを何度も繰り返すという行為が、どうも好きになれない。それが苦手というか、うまくできないというか。
 不器用だからできないんではなく、気分の問題なんだってことはわかってる。苦手意識を持ってるから、やる気にならないし無駄に時間がかかる。時間がかかるから、やる気が削がれるし好きにならない。これぞまさに悪循環。卵が先か、鶏が先かみたいな。ちなみにオレは、鶏が先だと思ってる。
 つとめて他のことを考えて気を紛らわせながら、何度か手を止めながらもなんとか籠の中に入っていた洗濯物を干し終えた。
 ベランダから部屋に戻り一服していると、またも奇跡体験をすることになった。
 一日に二回も、面白いのか面白くないのか、偶然なのか仕組まれてるのかというタイミング。今度は第二陣の洗濯の終わった音と、玄関のインターホンの鳴る音が重なった。一回目で耐性がついてたのか、今度はさほど驚くことはなかったが、今回は固まった。
 ……このタイミングでインターホンが鳴ったってことは、もしかするんだろうか。それにしたって、早すぎる気もする。ということは、勧誘の類かもしれない。
 思索した末、煙草を消して玄関に向かう。一応ドアスコープで来訪者を確認した。
「……これは、居留守を使うべきだろう」
 ドアスコープから視線を外し、気分を切り替えるために大きく伸びをしてから、第二陣の洗濯物を干すために廊下に置いた籠を持って洗濯機の元に行く。
 しかし、再び部屋の中に鳴り響いたインターホンにより、その場に立ち止まることになった。
 玄関を一瞥してから、一歩足を前に踏み出す。
 三回目のインターホン。
 また一歩踏み出す。
 四回目のインターホン。
 まるでタイミングをわざと合わせているのではないかというインターホンの音に、笑いそうになりながらも同時にムカッともきた。
 くるりと踵を返せば、五回目のインターホン。
 諦めが悪いのか、オレが居留守を使っていることに気づいていてあえて押しているのか。
 このまま放っておけば、奴は永遠とインターホンを押し続けかねない。これはもう、オレの方が諦める他に方法はないのか……。
 しょうがないと溜め息を吐き、玄関を開けるために動き出すと同時に、六回目のインターホン。
「――今出る! もう押すなうるさい!」
 八つ当たりよろしく、外に聞こえるように怒鳴ると、籠を床に置きドタドタと足音をさせながら、玄関まで行き勢いよくドアを押し開く。
 開いた時に外にいる人間にドアが当ればいいのにと思ったが、そうもうまくはいかない様に世の中はできているらしい。
 なんの手応えも無く開いたドアから離れたところに、嫌がらせなほどにインターホンを押しまくった犯人であり、自分勝手な発言連発の人間――薄地の黒いジャケットに、インナーは白の無地のティーシャツ。胸の辺りの長さの革のネックレスに、ダークブラウンのストレートパンツ。案外シンプルな私服姿の相澤保弘が、涼しい顔をして立っていた。
 そういえば、相澤の私服は初めて見る。上から下までを不躾に見ながら新鮮な感じだと思っていると、相澤が一歩前に踏み出してきて口を開いた。
「まさか二度寝でもしていたのか? いくら休みだからといって、たるみきった生活をしていると、ボケるのが早くなるぞ」
「うるせーな。洗濯してたんだよ。つーかアンタ、電話くらい出ろよ」
「電話……?」
 不機嫌さをあからさまに表に出しながら相澤に言えば、相澤は首を傾げながらパンツのポケットに手を伸ばして携帯を取り出した。
「本当だ、不在がある」
「……アンタ、気づいてなかったのか? なんのために携帯持ってんだよ」
「私の都合のいい時に連絡を取るためだ。携帯とは、そういう役割のものなんじゃないのか?」
「ちげーよ! 相手だってアンタに連絡取りたい時あるだろうが! アンタのためだけにしか役割を果たせないなんて、携帯が可哀想だろうが!」
「ほんの冗談だ。そんなに怒鳴るようなことか?」
「ほっとけ。というかアレか。昨日のオレのメールも、真夜中に返事寄こしたのは、それまでメールを見てなかったからなのか?」
「そうだ。アラームをセットしようとして、気がついた。問題は無かっただろう」
「……いやまあ、そうだったけどよ」
 相澤に問われ、閉口する。
 夜中にメールが来ようと気にしないから、なにも問題ないっちゃない。どちらかというと、ちゃんと返事があったことの方に、問題を感じている。今の状態だって、ある意味問題だ。
 昨日までオレを無視していた相澤が、今はこれまでと変わらない態度で会話をしている。まるでこの二週間なにもなかったかのように進むやり取りに、問題を感じざるをえない。それと同時に、ホッとしているオレにもおかしい。
 あんなにも毛嫌いしていた相手なのに、こうした取りとめもない会話が楽しいと感じるなんて、オレは寝ている間にベッドサイドにでも頭を強打してしまったんだろうか。
「ところで名取、いつまで外で話をするつもりだ?」
「もしかしてアンタは、中に入るつもりなのか?」
「質問を質問で返すなんて、無作法な奴だな」
「アンタとの会話の間に、作法もなにもないだろう」
「そうか。ルール無用、なんでもあれというのも、楽しいだろうからいいかもしれないな。とりあえず、中に入れろ」
 相澤はそう言うや否や、オレを押しのけて中に入ろうとする。
 ――そこで今さら、本当に今さらながら、自分はマヌケだろうと罵りたくなるくらいに今さら、一つ気づいたことがあった。
「――そいつ、誰?」
 オレよりも高いだろう身長。切れ長の二重に、スッと通った鼻梁。薄い唇は笑みを形作っている。長めの黒髪は、軽く後ろに流すようにセットされていて、白い無地のロングティーシャツに、ダークグレイのベストを合わせ、タイトなジーンズを履いている。身に着けているアクセサリーは、シルバーで凝ったデザインのネックレスにブレスにピアス。
 印象がかなり違いすぎて一瞬気づかなかったが、背格好と雰囲気からしてこの男は昨日、相澤と一緒にいた警備員じゃないだろうか。相澤の頬にキスをしていた記憶が新しい。
 どうしてこの男がここにいるんだ? そして、どうして今の今までオレは気づかなかったんだ?
 相澤のことしか目に入って無かったって? そんな気色悪いことがあってたまるか。オレが馬鹿だっただけ。アホだっただけ。
 人の視野は左右で百二十度だと言われているが、オレはせいぜいその半分しかないんだろう。そうなんだろう。
 現実を認めたくなくて、自分のことを卑下していると、固まっている相澤がいることに気づいた。
 ――なんで相澤が驚いてんだ? そして、警備員の男は、なんで笑いを抑えるように肩を震わせてんだ?
 現状がいまいち掴めず、相澤と警備員を交互に見る。やっぱりオレが馬鹿で、飲み込めていないというのとは、ちょっと違う気がする。
 なんだ? なにがおかしいってんだ?
「えーと、相ざ――」
「おい潤次、どうして貴様がここにいる」