記憶の中にあるもの
きょうゆうの始まり
あの後、急いでアパートに帰ったオレは、頭痛で寝込んだ。自分の一番落ち着けるところに帰ってこれたことにより気が抜けたことと、頭の容量が一杯になったせい、それと少々の二日酔いのせいで頭が痛くなったんだろう。
内装的にわかってはいたけれど、オレが出てきたところがラブを育むホテルでなかったことは、かなり救われた。あれがもしラブホだったら、オレの頭痛はもっと酷いものになっていたに違いない。
相澤に対しての怨みごとを考えながら、頭痛と戦う土曜の一日を終えたオレは、日曜である今日も一日の大半を寝て過ごした。
そして夜。オレは昨日のことを早く忘れるために、心と躰のオアシスへと足を運ぶことにした。
繁華街の奥の方に位置している、オレと同じ性癖を持った男たちの憩いの場の一つ。その憩いの場に行く道すがらでさえ、荒んだ心が少しずつ安らいでいく。
目的のオアシスまで、周囲の光景を横目で流しながら軽い足取りで進む。
歩き慣れた道を歩き、オアシスにようやく到着したオレは、テナントのいくつも入っているビルの地下へと続いている階段を降りる。
階段を数段降りると、目の前に見えてくる厚いダークブラウンの木製の扉。アールヌーボ調のドアノブに手をかけ、下に下げて開き扉を開ける。
扉を開ければ、ドアチャイムの音と共に世界が一変する。
落ち着いた内装に、オレンジの強い明るめの照明。ダークブラウンで統一されたカウンター席にテーブル席に、端の方にちょっとある周りから見えづらい造りになっているボックス席。今日は日曜日ということもあり、店の中には多くの人がいる。
酒を飲んで話をする人間。自分の好みの人間を口説く人間。いい雰囲気を醸し出している人間。それらの光景を目にしただけで、オレは安心感を覚えてしまった。オレの好みのぽっちゃりくんが沢山。まさにオアシス。
「いらっしゃいませ、名取さん。一週間振りですね」
店の入り口でほんわかとした気持ちで店内を見渡していたオレに気づいて声をかけてきてくれた、この店【On-ikU】のマスターの顔を見た途端、オレは早足でカウンターへ行き、情けない声を出しながらいつも座っている席に着いた。
「マ〜スタ〜……」
「どうかなさったんですか? 今日の名取さんは、元気がないようですね」
「そうなんだよ。マスター、オレの話を聞いてください!」
グラスを磨きながら問いかけてきたマスターに、オレはカウンターに突っ伏しながらマスターを見上げる。
「話を聞くの、俺でいいんですか? 今日は名取さん好みの子が沢山来店されていますよ?」
「……あ、勉(つとむ)くんもいる」
マスターに言われ、店の中を見渡した時、カウンター席の端で一人で呑んでいたオレの今一番タイプのぽっちゃりくんで、一ヶ月前にこの店で知り合った男の姿を見つけて呟いた。
「あちらにお飲み物をお持ちしましょうか?」
提案してくるマスターに、オレは少し考えて首を横に振った。
今の精神状態で勉くんと話をしたとしても、楽しく会話をすることはできないだろう。それに、情けないオレの姿なんて彼には見せられない。ましてや、まったく好みのタイプでない人間と寝たかもしれないなんて話を、知られたくもない。……元のオレのイメージなんてそんなにいいものではないかもしれないが、それでも嫌だ。
「ビールでよろしいですか?」
「お願いします」
勉くんから視線を外し、大きく溜め息をついたオレに、マスターは小さく笑いながら言うと、グラスを取り、カウンターの下にある冷蔵庫からビールを取り出した。
マスターこと、西森あけみ(にしもりあけみ)さんは、百八十以上の長身、がっしりとした体型の、いかつい見た目とは正反対の穏やかな性格をしている年齢不詳のナイスガイ。
オレよりもだいぶ年上なのは予想がつくが、実際にマスターがいくつなのかは、この店の古い常連客ですら知らない。謎のままなのはもやもやして気持ち悪いから、はっきりと訊いてみたいが、以前にマスターに年齢を訊いて無言の圧力を受けている人間を目撃したことがあるので、実行をしたことはない。
あの時のマスターの目、見た目と比例してかなり怖かった……。
「はい、お待たせしました」
マスターをジッと見ていると、オレの前に四角いコルクのコースターと、グラスに注がれた冷たいビールが置かれる。マスターに礼を言ってから、ビールを喉に流し込む。
オレが今呑んでいるビールは、ドイツ製のなんちゃらというビール。名前を覚えていないのは、うまければブランドとかそういうのを気にしないオレの性格ゆえだ。名前ばかりであんまりうまくないビールもあったりするが、この店で出てくるビールは、そこいらにある物とは格別に違う。一度ここの物を味わってしまったら、他の物は味気なくてしょうがない。
マスターが出してくれたクラッカーを口に運び、ビールを喉に流し込んでからマスターを見る。
「それで、なにが原因で元気がないんですか?」
「……マスター、オレは、あやまちをおかしてしまいましたのです……」
「いったいなにをやらかしたんですか? まさか、いたいけない少年にでも手を出してしまったとか……? いくら人肌に飢えていようと、犯罪はいけません。感心しませんね、そういうことは」
【犯罪】というフレーズに思い切り顔を顰めると、オレの顔を見て勘違いしたマスターが驚いた顔をした。
「まさか、本当に未成年に手を出してしまったんですか……?」
グラスを拭いていた手を止めて、声を潜めながらオレに顔を近づけて訊いてきた。
マスターのその言葉に、口に含んでいたビールをマスターの顔に吹いてしまいそうになった。
なんとかそれを堪えると、マスターを睨みながら小さく咳き込む。
「違う!!」
「おや、そうなんですか。俺の勘は当たるのに、今日は外れてしまいましたか」
「マスター……。わかって言ってるよね……」
「茶化してすみません。どうぞ、お話ください」
オレが不貞腐れたことに気づいたマスターは姿勢を正して、再びグラスを磨き始めた。
相澤のことでムシャクシャしていたオレだったが、マスターのいつものオレをからかってくる行動に毒気が抜けたような気がした。
溜め息を吐き、ビールを飲むと、ようやく本題に入り始める。
「………………。……なんつーか、昨日の朝、ホテルで、ある男と、一緒のベッドで目を、覚ましたんです」
「まあ、それはいつものことなんじゃないんですか?」
「いつものことなんかじゃない! ……と言い切れないのが悲しい……」
「名取さんはおモテになりますからね」
マスターの言葉を否定したが、すぐにそれを撤回せざるを得ない生活を送っている自分が少しばかり情けない。
クラッカーを手で弄びながら、口を尖らせつつ気を取り直して話を続ける。
「その、相手っていうのは、会社の同僚で、その、しかもソイツはオレがソイツに告白をしたとか、言ってきて……」
「会社の同僚……。その方は、名取さんのタイプなんですか?」
マスターにタイプかどうかと訊かれて、思い出したくもない相澤の顔を思い浮かべて顔を顰める。
「もしかして、タイプでもないのに告白をなさったんですか? それは、その方のことを本気で好きになってしまったんですね」
「違う! 全然そうじゃない! オレはアイツに告白なんて、酔狂なことはしてない! アイツが勝手にそう言ってるだけで、オレにはまったく覚えはないんだ!!」
声を荒げたオレに、マスターが驚く。
「それなら、相手の方が名取さんのことを?」
「それも違う! アイツ、ノンケみたいだし……」
「ふむ。なにやら、複雑そうですね。……ああ、おかわりいかがですか?」
「お願いします」
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