記憶の中にあるもの

きょうゆうの始まり 2

 話しながら、ちびちびと口をつけていたビールのグラスが空になったところを見計らって訊いてきたマスターに、頷く。
 空になり、グラスに水滴を伝わせているそれをさげると、少し離れるマスター。店内に流れるゆったりとした曲調のBGMに耳を傾けながら、クラッカーを口の中に放り込む。
 今日は相澤との一件のせいでざわついた心を癒すためにここに来た。マスターに聞いてもらって少しは落ち着くのではと思ったが、やはり頭の切り替えはそううまくはできないようだ。
 嫌なことなら、さっさと忘れ去ってしまえばいい。自分で言うのはなんだが、オレの頭は単純にできているんだから、次に頭が一杯になれることを見つけて、綺麗に記憶の中から消し去ってしまえばいいのに、今回はどうもなにかが引っかかっていてうまく処理ができない。
 オレにゲイとはどういうことなのかと訊いてきた時などの、あの表情。
 綺麗に畳まれた衣服のデジャブ感。
 ところどころに感じる違和感の正体を考えたところで、答えなんて出てこない。
 小皿の中のクラッカーを指先でつつきながら、憂鬱にも似た気持ちになっていた時、オレの隣に誰かが座ってきた。
「こんばんは、名取さん」
「勉くん……」
「ちょっとお話が聞こえてきちゃったんで、移動してきちゃいました。おれ、お邪魔でしょうか?」
「いや、その……」
 オレの隣に座ってきたのは、オレが店に入ってきた時からカウンターの奥の方で一人で酒を呑んでいたオレの一番のタイプ、新保勉(しんぼつとむ)くんだった。
 オレよりも小さくて、ぷにぷにとした触り心地のよさそうな躰をしている。今日の勉くんは少し疲れてるのかもしれない。ツヤとハリのある可愛らしい顔が、いつもよりむくんでいるように見える。
 ひとつひとつのパーツが小さくて、幼い見た目の彼は、二十二という年齢よりも幾分か若く見える。
 それにしても、人懐っこい笑顔を浮かべながらオレの顔を覗き込んでくる仕草が、ものすごく可愛い!
 今のオレの情けない姿なんて彼に見られたくなかったが、邪魔かと訊いてくる彼のことを邪険に扱うことはできない。どうしたものかと考えながら、大きく溜め息を吐く。
「おれ、やっぱり移動してこない方がよかったですか……?」
 オレの溜め息に過敏に反応し、申し訳なさそうに一重の瞳を細める。
「いや、違うんだ。なんていうか……今日のオレは、ちょっぴし情けないことになってて……。勉くんのことを不快な気持ちにさせるかもしれないってさ」
「どんな名取さんでも、おれはまったく気にしません!」
 勉くんのことが嫌で吐いた息ではないとわかった彼は、パッと表情を明るくしてオレに笑いかけてくれた。
 ……ああ、これぞ癒し……。このまま彼のふくよかで弾力のある体躯を抱きしめることができたなら、もっと癒されること間違いないだろう。
 勉くんを見ながらそんなことを考えていると、オレと勉くんの話が一区切りついたのを見計らったかのように、マスターがオレの前にビールのおかわりを置いてくれた。
 マスターに礼を言うと、目が合った。話の続きはどうしましょうかと、視線で問いかけてきながら首を傾げるマスター。
 オレはマスターに苦笑をしてから、勉くんに対して口を開く。
「えと、勉くん、マスターと話の続きをしたいんだけど、構わないか?」
 このまま勉くんと呑んで癒されるという選択肢もあるにはあるんだろうが、オレはあえて遠回しに、この場は遠慮してくれないかな? と言う。
 勉くんはどんなオレでも気にしないと言ってくれたが、今日の話の内容を勉くんが聞いたら、確実にオレのことを失望してしまうだろう。勉くんと出逢って日は浅いが、結構うまくいっていると思う。このままいけば、何年か振りに恋人らしい恋人ができるかもしれない。だから、できるだけ今回の失敗談は聞いて欲しくはないんだが……。
「おれ、側にいたいんだけど、駄目?」
「いや、そのー……」
「おれ、名取さんが悩んでるんなら力になりたい! 今みたいな名取さんの辛そうな顔なんて、見たくないもん!」
「勉くん……」
 オレの手を握り、潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめてくる勉くん。必死なその表情に、オレの単純な心はすぐに折れてしまった。
「……かまわないよ。その代わり最初に言っとくけど、相当酷い話だからな?」
「ありがとう、名取さん!」
 苦笑混じりに答えたオレに、勉くんは嬉しそうに破顔すると、握っていた手にキュッと力を込めてから手を離した。
 ……ああ、本当に笑顔が愛らしい。柔らかそうな頬っぺたをつつきたい。顔を擦りつけたい。ここが店の中じゃなかったら、即押し倒してる。
 勉くんのおかげでほんわかとした空気になったオレ。顔が弛んでしまわないように注意しながら、話を再開させた。




「あらあらまあまあ。宗旨替えなさったんですね。それとも、範囲が広がったと言うべきでしょうか」
「まーすーたーあー?」
 話を聞き終えたマスターが、またからかってくる。恨みを込めた視線をやると、マスターは小さく笑った。
「冗談ですよ。ちゃんと話をつけてきたのでしょう、相手の方と」
「まあ、ちゃんというか、一応は……」
 なんだかあやふやな感じで相澤との話は終わった気はするが、全部オレが仮に認めて、はい解決!って感じになったから話はついたといってもいいだろう。……ちょっと、いや、かなり納得がいかないけど……。
 歯切れの悪い答え方をしたオレに、マスターは磨き終わったグラスを置くと、カウンターに身をのり出して、
「今回のことは、いい人生経験になったとして、同じことを繰り返さないように、今後はお酒を控えて醜態を晒さないようにする。いいですね?」
 真面目な顔で短い説教をしてきたマスターに、オレは「はい」としか答えることができなかった。
 確かにマスターの言う通り。酒は呑むものであって、呑まれてはいけないもの。大好きな酒を我慢するのはできないが、これからはちょっとは量を減らしてみよう。記憶が飛ばない程度に呑むのが、正しい呑み方というものだ。……そんなこと、こんな状態になる前に学習しておかなければいけないことなんだけどな。
 うんうんと、自分の中だけで納得をしていると、ずっと黙ってオレの話に耳を傾けていた勉くんが「酷い……」と小さく呟いた。
「あー……ごめん、オレ、こんな奴で……」
 勉くんの呟いた言葉が、グサリと心に突き刺さる。勉くんの言う通り、彼に気があるように見せていたのに、他の男、ましてやオレのタイプでもなんでもない会社の同僚と、おそらく一夜を供にしてしまったんだ。呆れ貶されてしまうだろうと予測はしていたが、やはりキツイものがある。
 怒りを押し殺しているのか、悲しみを押し殺しているのか、小さく震える肩にぽんと手を置く。すると勉くんはいきなり躰を反転させ、肩に置かれたオレの手を両手で包み込むようにきつく握ってきた。
 勉くんのいきなりの行動に、オレとマスターが驚いて勉くんのことを見た。
「つ、勉くん?」
「新保くん、どうかしたんですか?」
「……酷い……酷いです、その人……!!」
 大きな声の勉くんの声は、静かなBGMと話し声で満たされていた店内の中にも充分に響き渡った。
 店の中にいた客のほとんどの視線が、オレたちに向けられる。なにが起きたのかと好奇心満々の視線と、心配そうな視線。騒ぎの中心にいるオレは、いたたまれない気持ちになって視線を下げる。
 ざわざわし始めた客たちを落ち着かせるために、マスターの声が店内に響き渡る。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。なにも問題はございませんので、どうぞ皆様はそれぞれの楽しい時間にお戻りください」