記憶の中にあるもの

きょうゆうの始まり 3

 そのマスターの声に、顔を伏せていたオレも顔を上げると、申し訳程度に頭を下げた。一方、騒ぎの元凶である勉くんは周りがまったく見えていないのか、オレのことだけを真っ直ぐ見ていた。
 客たちの視線はまだ少しオレたちの方を向いていたが、ほとんどの人間はマスターの声でそれぞれの時間に戻っていた。
「ありがとうございます、マスター」
「いえいえ、お気になさらずに。……それより、新保さんを」
「あ、ああ……」
 マスターに促され、ずっとオレの手を握ったままでオレのことを見ている勉くんに向き直った。
 勉くんは【酷い】と言った。最初はその言葉はオレに向けられたものだと思ったが、それはオレでなく相澤に向けられたものだったらしい。
 確かに相澤は酷い奴だ。オレはそう認識している。オレに失望をせず、オレの気持ちに共感をしてくれた勉くんの言葉が嬉しい。
「……勉くん、そう言ってくれてありがとう。オレは、不誠実なことをしたっていうのに」
「名取さんは悪くない! その人が悪いんだよ! きっと、名取さんが酔ったのをいいことに、名取さんのことを寝取ろうとしたに違いない!!」
「いやー、アイツに限ってそういうことはねえだろう……」
「絶対そうだよ! だって、名取さんはすっごく魅力的だもん!」
 白くふっくらとした顔を興奮に赤くさせながら、熱烈な告白のような台詞を言った勉くん。そんな勉くんに、ときめいてしまった。
 この子、そんなにオレのことを……。
 今日はくさくさしていて、欲なんてものは湧き上がらないと思っていたが、熱い視線を送ってきてくれる勉くんに、躰の奥にある欲望がムラムラと涌き上がってくる。
 握られていない方の手を勉くんの手に添え、彼の名前を呼びながら距離を詰めていく。しかし、
「……いい雰囲気のところ申し訳ありませんが、ひとつ、確認をしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 マスターの咳払いにより、オレは勉くんとの距離がゼロになる前に止まり、ハッと我に返った。
 手を離そうとしたが、勉くんの方は手を離してくれる気配はない。手を繋いでいても話は聞くことに支障はないので、手はそのままにして気持ちを切り替えるように咳払いしてからマスターを見る。
「えと、なに、マスター?」
「その同僚の方、会社には言わないと約束をしてくれたのですか?」
「……へ……?」
「あまり、俺が余計な口を出していい問題ではないとはわかっているのですが、気になってしまって。確か名取さんは、会社ではカミングアウトをなさってはいないのですよね? だから、その方がうっかり口を滑らせてしまったら、大変なことになってしまうのではないかと思いまして」
「あー…………」
 すっかり忘れていた。いや途中まではちゃんと覚えていたけれど、すべてを無かったことにしたいということだけに気を取られていて、つい失念してしまっていた。
 大事なことなのに、どうしてオレはこうもツメが甘いんだ!
 頭を抱えたオレに、心配そうに名前を呼んでくる勉くんと、「まあ、そういうところが貴方らしいのでしょうが」と、苦笑するマスター。
 二人に話したことで、悩みがほとんど薄れていったと思っていたのに、また問題が浮上してきてしまった。
 相澤が会社の人間に黙っているとは限らない。オレは相澤のことをまったく知らないも同然。オレをその問題で脅してきても、アイツにとっていいことなんてのはないだろうから、しない可能性もちょっとはある。……と思う。
 完全に安心はできない。
 もうすっかり忘れ去って、相澤とはもう関わりたくないと思っていたのに、明日出勤をしたらまた相澤と話をしなければいけないのか……?
「名取さん、大丈夫……?」
「お酒のお代わりでもお持ちしましょう」
 さっき勉くんに対して湧き上がってきた欲望なんて、完全に消え失せ、変わりに絶望が押し寄せてきた。
 結局オレは、癒しの空間でほんの一時の癒しを得ることができただけで、勉くんではなく、新しい悩みをお持ち帰りしたのだった――。




 On-ikUから早めに帰宅をしたオレは、熱いシャワーを浴びてとっとと布団に潜った。
 会社で相澤に逢ったら、さりげなく、動揺をしないように口止めをしないと。そんな憂鬱なことを考えつつも、意外にもぐっすりと眠ることができた。
 そして今、朝のオフィスに出勤してきたオレは、先に会社に着いていた相澤を部署の入り口に立ちながら睨むように見ていた。
 さりげなく振舞おうとしていたのに、本人の姿を目の前にしたら、オレの躰は言うことを聞いてくれなかった。
 間単に現状を説明すると、出勤してきて部署の入り口に着いたオレは、アイツの姿を認めてガラにもなく緊張をしてしまい、動くことができないでいるのだ。
 出勤してくる人間が、怪訝な顔でオレの横を通り過ぎて行く。いつもはみんなと普通に挨拶を交わしているのだが、今日のオレに声をかけてこようとする人間は誰もいない。
 しかし、いつまでも入り口でこうしているわけにもいかない。朝のうちに問題を解決してしまいたいと思っていたのに、時計を見ればもう朝のミーティングが始まる時刻を差していた。
 動け! オレの足!! と思っていると、相澤とバッチリと目が合った。
「……ふっ」
「――!?」
 あ、アイツ今、オレのことを鼻で笑いやがった!?
 すぐに顔を逸らした相澤に、怒りが沸いてくる。その怒りを原動力に、オレはようやくその場から動くことができた。ずかずかと歩き出すと、大股で相澤のデスクと通路を挟んで反対側にある自分の席に座る。
「おはよう、名取」
「……はよ」
 キャスターの付いたイスでオレの隣までわざわざ移動してた相澤に、ムスッとした声で返す。そのオレの声に、相澤は笑った。
 なぜ笑われる必要があるのかわからず、相澤に冷えた視線を送ったが、まったく効果がないようだ。ムカつく。
「なんか、用かよ……」
「用事があるのはお前の方なんじゃないのか? あんなに私に熱烈な視線を送ってきて……。忘れろと言ったのはお前の方だったのに、もしかして忘れられなかったとか……?」
「――!?」
 耳に息を吹きかけるようにして言ってきた相澤に、大袈裟に仰け反って身を引く。
「おまっ! ふざけんなよ!?」
「声が大きいぞ。注目されるのは嫌だろう」
「――! 誰のせいだと!」
 相澤に指摘され、一応周りを見渡す。幸い、オレたちの方を見ていた人間はいなかったことにホッと胸を撫で下ろし、声を潜めた。
「私はなにもしていないと思うんだが。……それより、本当に用事はないのか?」
 しれっと自分に非はないと言ってのけた相澤に頬を引きつらせつつ、相澤の方は見ないようにして声の大きさに気をつけながら話をする。
「その、な、アンタに言い忘れてたことが、あってよ……」
「……詳しい話は、昼休みにしよう。もう少しでミーティングだ」