記憶の中にあるもの

きょうゆうの始まり 4

 相澤の方を見ていなかったからわからなかったが、ちょっと相澤の空気が重くなったような気がした。その気配を感じ取ったオレは相澤を見てみたが、すでに自分の席に戻ってしまっていた。
 オレのことをからかっているのかと思ったら、急に大人しくなるなんて変な奴。不審さに眉を潜めたオレは、もうオレの方を向いていない相澤の後頭部を見ながら考えると、ミーティングが始まった。




 散ってしまいそうな集中力をなんとか保たせながら、ようやく昼休みの時間になった。
 集中力を保たせたといっても、細かいミスが連発してしまったせいでほとんど仕事は捗らなかった。このままの調子でいくと、残業確実だな。残っているファイルを一瞥しながら深い溜め息を吐く。
「名取、外に食いに行くか?」
「………………」
 後ろから声をかけられ、今度は違う意味で溜め息を吐きながら、パソコンの電源を落として財布を持って立ち上がる。
「ご機嫌斜めだな」
「アンタの方は、ご機嫌だな」
「これからお前にどんな面白い話を聞かされるのかと、期待をしているからな。必然的に機嫌もよくなるというものだろう」
「……クソが……」
「近くの定食屋でいいか? それとも、ちょっと遠くの方にしておくか?」
「……近くていい」
「了解」
 相澤と肩を並べて歩きつつも、顔は絶対に合わせないまま会話を交わして外に出るためにエレベーターに乗り込む。
 昼休憩で食堂に向かう人間や、オレたちのように外に食べに行く人間でエレベーターは何人もの人間が乗っていた。そのため、相澤とくっつきそうな距離になっていた。
 こういう状態ではしょうがないことなのに、変に意識をしてしまっているせいで、必要以上に躰が硬くなってしまう。
 オレの緊張とは裏腹に、相澤はそんな素振りは微塵もない。神経が図太いのか、それともなにも考えてはいないのか。……前者が正解だな。相澤の仕事のやり方などを見ていると、怖いもの知らずというか攻撃的なタイプだということはなんとなくわかっていた。だから、こんな普通ではありえないおかしなことが起きても、動揺もなにもしないんだろう。
 そういう風に感情を表に出さないところは少しは羨ましいと思わなくもない。オレがヘタレだってわけじゃない。きっとオレがまだまだ青いだけなんだ。相澤のことを見習うというのは虫唾が走るが、気に入らない相手からでも技術を盗んで自分の物にするのが、本当のデキる男ってやつなんじゃないだろうか。
 そんなことを考えていると、エレベーターが一階に着いた。真ん中辺りに立っていたオレは、人の波に乗ってエレベーターから降りた。
 出入り口へと向かう途中、同じ部署の人間がちらちらとオレたちの方を珍しいものを見たという目で見てきていた。好奇の視線を向けられるのは、オレらの組み合わせが非常に珍しいからだろう。会社内でも一度もつるんだこともなければ、仲もよくない。同じ年で同期入社ということでライバル関係にあるオレらが一緒に行動しているとなれば、いつもの様子を知っている奴らからしてみれば、異様なものに映るに違いないのはオレにもよくわかる。
 オレだって、相澤と一緒にいるなんて違和感がありまくる。できることなら今すぐにでも別行動を取りたいが、今はしょうがない。背に腹はかえられない。……使い方、違うか? まあ、いい。これから顔を突合せて相澤と飯を食うんだ。些細な間違いなんて気にしない。
 こんなことは、今日で最初で最後。この昼休みが過ぎれば、もうこんなことは二度とない。金曜のことにも一切触れない。なにもかも、これでおしまい。今夜からはスッキリとした気持ちで夜を明かすことができますようにと心の中で願いながら、二人で近くの定食屋に向かったのだった。




 会社から徒歩で十分くらいで行ける、ちょっと古い建物の定食屋。ここの存在を知ったのは、先輩がうまいと教えてくれたから。初めは古めかしい店の外装に気後れしたが、いざ入ってみて飯を食ったらすごくうまかった。それに、値段も安くて財布の中身が寂しくなりがちなオレにはとても優しい定食屋。
 ほとんど口コミで客が集まっているこの店は、昼時だということもあり、昼食を取りにきた会社員などで賑わっていた。休憩が始まってすぐに移動したのは正解だ。もう少し出るのが遅れていたら、席が埋まって待つ羽目になっていただろう。
 すんなりと席に座れたオレたちは、それぞれに注文する。
 注文を取ってすぐにさがった店員をなんとなく目で追ってから、熱いお絞りに手を伸ばした。
 エレベーターから現在にいたるまで、オレと相澤の間に一切会話はなく、重苦しい空気だけが漂っていた。
 オレは無言には堪えられない性分なので、この空気が辛い。かといって、相澤相手になにを話したらいいのかもわからない。コイツと日常会話。……うん、まったく想像がつかない。
 手を拭き、冷たくなったお絞りをぐしゃっとテーブルに置き、チラっと相澤を見る。
「畳んでる……」
「なに?」
 手を拭いたお絞りを綺麗に畳み直してテーブルに置いた相澤に、つい思ったことを口に出してしまった。
 眉を潜めてオレを見てくる相澤。誤魔化そうかと思ったが、なにも言い訳は浮かんでこないので、正直に言うことにした。
「……この間、服が綺麗に畳んであってびっくりしたけど、おしぼりまでんな丁寧に畳むとは思ってなくてよ」
「ああ、そういうことか。私はキチンとしていないのは好きではないんだ。アンタは、服を脱ぎ散らかしてそのままにしていたから、許せなくて私が畳んだ。お前は、別に他人が触ったからと言って、特別文句は言わないだろう?」
 キチンという言葉に、着崩されたバスローブはなんだったんだと一瞬思ったが、すぐに忘れる。
「そりゃまあ、そうだけど……。オレは潔癖じゃないし」
「だろうと思った。そういうところまで気にする性格じゃなさそうだしな」
「……それは、オレがガサツな人間だとでも言いたいのか?」
「否定をすることができるのか?」
 テーブルに右肘をついて頬杖をしながら言った相澤に、顔を顰めるだけで否定も肯定もしなかった。それがオレの答えだと解釈した相澤は、なにがおかしいのか笑う。
「それで、私に話というのは、あの時のことだろう? お前は忘れたがってたくせに、どういう風の吹き回しだ?」
「……忘れたいのはホントだ。アンタだってそのはずだろうが」
「私はどっちでもいいんだがな。嫌な経験だったと思えばそうなるし、いい経験をしたって思えばそうなるだけの話だ」
 お前は私にどう思って欲しいんだ? と相澤が問いかけてきた時、注文していた定食が運ばれてきた。
 オレの目の前に置かれた、温かい湯気のたつ豚のしょうが焼き定食。食欲をそそる匂いがオレの鼻腔をくすぐるはずなのだが、今はなんの魅力も感じなかった。ハッキリ言って食欲は無いが、食べなければ午後の仕事に支障をきたしてしまう。
 残業は確定しているのだから、今さら仕事に支障が出たところでなんだという話ではあるが、腹が空いては戦はできない。
 小さく息を吐き出してから、箸を持つ。味噌汁に口をつけ、相澤に訊かれたことに答えた。
「全部だってのは――」
「ないって言ったはずだよな」
「……知ってる」