記憶の中にあるもの
しんじつの始まり
「おはようございます、せん……ぱい?」
「おはよう、後輩くん」
「どうしたんですか、先輩? なていうか、これまでにないくらい不細工な顔になってますよ……?」
朝。いつもより格段に早く会社に出勤して自分のデスクの前に立つと、オレよりも早くに出勤してきていた後輩が、心配そうな口調で言ってきた。
……昨日も遅くまで残っていたのに、オレよりも早く出勤してきてるなんて、この後輩はもしかして、かなりの仕事人間なんだろうか。
「後輩くん、もう少し言葉を選ぶとかしたらどうなんだ? オレはいちおう、先輩なんだぞ?」
「イヤだって、本当に酷いですよ? 起きてから、鏡見ていないんですか?」
後輩の指摘に、オレはそういえば今日起きてから一度も鏡なんて見ていなかったなと思い当たる。そういえば、いつもは身だしなみにはきちんと気を使っているのに、最近はそこにあまり意識がいっていなかった。
毎朝鏡を見て、髪をちゃんとブラシで梳かして整髪料をつけて、肌だってケアをして見た目が悪くなっていないかどうかを確かめてから家を出ていたのに、最近ではサボりがちだった。
今日に至っては、起きてすぐに歯を磨き、水だけで顔を洗いそのまま。髪は着替えた時に適当に手櫛で整えただけ。洗面台に鏡はあるが、意識をしていなかったので自分の姿を見ていない。
そのため、今自分がどんなありさまなのか、オレは知らない。
特に気になるほどではないだろうと思っていたが、毎日顔を見ている後輩に指摘をされてしまうくらいだ。今日のオレは、これまで見たことのないくらい酷い顔をしてるのかもしれない。
そんな顔で一日仕事をするのは、社会人として、オレとしてだらしなさ過ぎるだろう。
そう思い、オレは鞄と上着を椅子に置き、トイレに行って鏡を見てくることにした。
後輩が指摘してきた通り、そんなに酷いのかということを確認するためと、どうかしたのかと深く突っ込まれるのが面倒だという理由から、足早に移動する。
早朝の会社は、人がほとんどいないということもあり、いつもより広く感じる。そのせいか、それとも寝不足の躰のせいか、オレの部署からトイレまでさほど距離はないというのに、倍の長さに感じてしまう。
なんだか寝不足が日常化してしまいそうな毎日に少しうんざりする。なにを悩んでいるのか、なにを考えているのか、自分でもわからないくらいに色々なことを考え、まとまりのない思考のループに囚われてしまい、眠りについたのは、朝日が昇ったくらいの時間だった。
今もまだその思考のループから抜け出すことができないでいる。
眠いし、頭が痛い……。こんなことなら、会社を休めばよかったかとも思うが、くだらないことで休んでいられるほど、社会人は甘くはない。休みを取るなら、前もってでないと予定が狂ってしまう。それくらい、オレにだってわかっていることだ。
「……げ……」
俯きながら廊下の角を曲がったところで、ふと顔を上げたオレは小さく声をあげた。なんてタイミングがいいのか、目の前に相澤が現れたからだ。
昨日は挨拶すらろくにしてないし、目も合わせていなかったので、こうして正面から相澤の顔を見るのは、土曜以来。
廊下だってそんなに広いわけじゃない。広くない廊下で人が自分の進行方向から来れば、視線は自然とそちらを向く。そのため、前から歩いてきた相澤とばっちり視線がかち合ってしまった。
オレの上げた声に気づいたのか、それとも違う理由か、目が合った瞬間相澤の顔が歪んだ。
その顔を見てズキッと胸が痛んだが、それは一瞬のことで、目線を下に下ろすとさっさと相澤から遠ざかろうと強い足取りで歩き出した。
まだオレのことを見ているらしい相澤の隣を通り過ぎ、走り出してしまいたい衝動を抑えながら歩いていたオレは、急に後ろから腕を引っ張られて、後ろに仰け反りながら歩みを停止させた。
なにが起きたのか容易に想像がついたオレが振り返れば、歪めた顔をそのままに、相澤がオレのことを掴んでいた。
「……放せ」
「名取、なんだその顔は」
「ああ?」
「具合が悪いのか? それとも、なにかあったのか? 本当に酷い。顔が崩れかかってるぞ」
「…………………………」
後輩といい、コイツといい、どうしてそういう表現の仕方をするんだ。もっと他に言いようがあるってもんっだろ。いくらオレでも、そこまで顔面を貶されたら、傷つくんだぞ?
しかし、顔を歪めてはいるが、相澤の言葉から悪意は感じられない。この歪んだ顔は、もしかしてオレの顔色を見て心配をしているからなんだろうか。
オレが答えるまで腕を放す気がなさそうな相澤の手を無理矢理振り解くと、アンタには関係ないと目で訴えるように睨んでから、さっさとその場を後にした。
ちょっとしか眠れなかったせいで、いつもより一時間以上早く出勤してきているせいか、トイレには誰もいなかったし、他に誰かが来る気配もなかった。それを幸いに思い、流水で顔を洗い、陶器に手をつきながらしばらく目を瞑る。
眠気のせいか目を瞑ると眩暈がした。ゆっくりと瞼を開け、大きく息を吐き出してから、顔を上げてまだ濡れている自分の顔色をチェックする。
……ああ、本当に顔が酷い。後輩や相澤の言っていたことは真実かもしれない。でももうちょっとソフトな言い方をして欲しかったもんだ。そんなことを思いながら、目頭の辺りを軽く指で押す。
「…………で、アンタはなんで付いて来たんだ?」
ポケットからハンカチを取り出し、顔を拭きながら、鏡越しに後ろに立っている人間を睨みつける。睨みつけた人間は、いわずもがな相澤保弘だ。
「歩いている途中で倒れでもするかと思ってな」
「オレはそんなにヤワじゃねえから、ほっとけ」
「普通、そんな顔色をした人間のことを、放ってなど置けるわけがないだろう」
「なら、お願いします放っておいてください。これならいいだろ。さっさとどっか行け」
「聞けないな」
「……………………」
頼んでいる口調ではないが、普通はこれだけ言われれば立ち去るはずだ。それだというのに、相澤は腕を組んでその場から動かない。
もしかして本当にオレの体調の心配をしてるのか、コイツは? 最近の相澤からは想像がつかない。いったいどういう風の吹き回しなんだ。
なにか小言を言いたそうに鏡越しにオレを見ている相澤に、なぜか憤りを感じながら、顔を拭いたハンカチをポケットに押し込み、相澤のことを見ないように心がけながら、トイレから出ようとする。
顔を洗ったことで、気分は多少良くなった気がする。だが、寝不足という事実は変わることはない。顔色をどうにかすることはできないが、自分がどんな状態にあるのか把握はできたから、気をつければ問題はないだろう。こういう時、女だったらメイクで顔色を誤魔化すとかできるんだろうが、あいにくオレには化粧をする趣味はないから、気力でどうにかする他ないだろうな。
相澤がこの場にいる事実を頭の中から追い出すために、そんなことを考えながら視線だけでオレのことを追っている相澤の横を通り過ぎ、通路に出ようとした時、背中に声をかけられた。
「……名取、お前、もしかしてなにか言われたのか?」
「は……?」
そんな問いかけをされるとは思ってもみなかったせいで、無視をしようとしていたのに思わず立ち止ってしまった。
怪訝に思い相澤の方を見れば、なにを考えているのかわからない表情をしていた。
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