SS
関係の切り替わり★
「君とは結構長い付き合いでしたね。とても苦労をさせられたけれど、とても楽しかったですよ」
樹紀(たつき)さんは笑顔を浮かべながら、オレにその言葉をかけてきた。
「はい。オレも、辛かったけど楽しかった。今までありがとうございました」
オレも樹紀さんに負けないくらいの笑顔を浮かべて、お礼を言いながら頭を下げる。
頭を上げると、まだ笑顔のままの樹紀さんと目があった。
樹紀さんと過ごしたこの四年はとても辛かったけれど、楽しくもあった。
懐かしいけれど、あの頃に戻りたいとは思わない。正直言ってしまうと終わってくれて嬉しい。
オレはそんなことを思いながら樹紀さんを見つめる。
お互い笑顔のまま、しばらく見つめ合っていた。
妙な空気が二人の間に流れる。
「ぷっ」
オレはとうとう、その空気に我慢ができなくなって吹き出してしまった。
一度吹き出してしまったらもう止まらない。オレは腹を抱えながら笑い転げた。
「基哉(もとなり)くん、笑わないでくださいよ。くくくっ……。俺だって、我慢していたんですから」
樹紀さんも小さく笑い出しながら、オレに注意をしてきた。
「だって…お互い…シリアスすぎて……」
オレは笑ったせいで苦しい息の中、樹紀さんに言い訳をする。
「俺は別に、シリアスにするつもりはなかったんですけど、つい」
「はははっ。まあ、それにのったオレも悪かったけどさ」
オレはまだ笑いながらも、樹紀さんの隣に移動した。
「今まで本当にありがとうございました。樹紀さんのおかげで無事にここまでこれたわけだし」
なんとか笑いを押し殺して、樹紀さんに寄りかかりながら改まってお礼を言った。
「どういたしまして。君も今までずっと熱心に頑張ってくれいたから、俺も助かったんですよ」
樹紀さんはオレの頭を撫でながら優しく言ってくれた。
今日はオレの大学の合格発表の日だった。
結果は見事に合格。
これも、樹紀さんが精一杯オレに勉強を教えてくれたおかげだ。
樹紀さんはオレの家庭教師の先生で、樹紀さんとオレとの付き合いは長い。
樹紀さんは、オレが中二の後半の時から今までずっと変わらずに家庭教師をしててくれた。
本当は高校に入った時に先生が替わるはずだったんだけれど、なんとかお願いをして続けて樹紀さんに付いてもらうことになったんだ。
その理由は二つある。
一つは、樹紀さんの教え方がすごく上手かったから。
樹紀さんが来る前のオレの成績は、後ろから数えた方が早いというくらい悪かった。
勉強を怠っていたわけではない。ただ、本当に頭が悪かったのだ。
そんなオレを見かねた親が、家庭教師を雇ってくれたのだ。
最初はすっごく嫌だったけれど、進学のことを考えるとそうも言っていられなくなり、渋々首を縦に振ったのだった。
そんなこんなで家に来た家庭教師というのが、樹紀さんだったというわけだ。
樹紀さんはまだ家庭教師のなりたてで緊張していたみたいだったけど、いざ勉強を始めたら来た時と打って変わって鬼のように厳しくなった。
でも、厳しいだけじゃなくて解りやすいし丁寧だった。厳しいだけだったら、確実にオレはすぐに嫌になっていたことだろう。そして何より、テストなどでいい点数を取ったら、まるで自分のことのように喜んでくれるのが嬉しかった。
そのうち、オレと樹紀さんはとても仲が良くなっていった。
その日の出来事や自分の思っていることについてなど、普段人には話さないことまで樹紀さんには話せるようになっていた。
オレは一人っ子だったから、兄貴ができたような感じだったんだ。
最初の頃は──。
それがいつからだったかな?もっと違う意味で樹紀さんを意識し始めたのは……。
告白は当然オレからだった。
あれは、オレが中三の秋のこと──。
その日も、いつもと変わらず厳しい勉強の真っ最中だった。
外の紅葉はすっかり赤く染まってい、赤トンボがそこら辺にうじゃうじゃいる秋の真っ盛り。
中三の秋ともなると、もう大詰めの時期。
そして、この時期が終わったら樹紀さんともお別れしなければならない……。
それを考えてしまうと、どうしても勉強に集中できない自分がいた。
「基哉くんどうしたんです?ぜんぜん進んでいないじゃないですか」
オレが集中できずに樹紀さんのことを考えながら問題集を睨みつけていると、それに気づいた樹紀さんが心配そうに声をかけてきた。
オレは問題集から顔を上げて、樹紀さんを見つめる。
オレよりも年上なのに、それを感じさせないような幼さが残っている顔。これは童顔って言うんだろうな。
樹紀さんの顔をじっと見つめて、オレは改めてそう思った。
白くて綺麗な肌。
くっきりとした二重に、黒目がちな瞳。
すっとした顎のライン。
ぷっくりとしている、形のいい桜色の唇──。
こうして樹紀さんを見ていると、思わず触りたくなってしまう。
「何考えてるんです?」
樹紀さんはオレに見られていることに不信感を抱いたのか、訝しげな顔をしながら訊いてきた。
そんな樹紀さんの表情にも、オレはぐっときてしまった。
……オレ、相当樹紀さんにハマってんだな……。
オレはそんなことを思いながら、
「樹紀さんのことを考えてるんです」
と、ここの問題を考えてるんです。という軽い口調で答えた。
「は?基哉くん、今なんて……?」
オレの言ったことが聞き取れなかったのか、樹紀さんはぽかんとした顔で訊いてきた。
「……聞こえなかったんだったら別にいいんだけど。それより、ここ教えて?」
オレは樹紀さんに訊かれたことには答えずに、適当な問題を指差して質問をした。
声色は普段と全く変わらないものだったが、オレは内心少し不貞腐れていたりする。
「聞こえたことは聞こえたんですけど…その……」
樹紀さんはなぜか照れているらしく、動揺の色を見せながらオレのことを見てきた。
その姿がいじらしくて、先生でオレより年上だって分かっているのに、つい意地悪をしてしまいたくなった。
「『その』何?」
「え…と……」
「早く言ってよ。勉強進まないっしょ?」
早く、と樹紀さんを急かす。
「……さ、さっきのは、どういう意味です……?」
少し顔を赤らめながら、樹紀さんが訊いてきた。
あー、ヤバいよオレ。そんな顔見たせいで、抱きつきたくなっちゃってるよ。
オレはその欲求を必死で堪えると、樹紀さんに、
「好きって意味ですよ?」
と、何気ないように気取りながら答えた。
少し生意気だったかもしれないけど、それくらいしないと自分の欲求に負けてしまいそうだった。
「好きって…基哉くん……」
「言っとくけど、冗談じゃないから。本気だから」
「え……?」
さっきはふざけた調子で言ったけれど、樹紀さんに「冗談でしょう?」と言われるのが嫌で、今度は本気だということを分かってもらうために、声と表情に少し力を入れて言った。
そんなオレに、当たり前のように樹紀さんは呆然として言葉を失っていた。
ま、その反応は元から予想の範囲内だったから、なんとも思わないけど。
オレはそう思いながら、樹紀さんを見据える。
樹紀さんは相も変わらず、呆然としたままオレを見ていた。
何かを言おうとしているのか、時々口をぱくぱくさせている。その仕草がおかしくて、思わず笑ってしまいそうになったけれど、ぐっと堪えた。
「……さ、疑問も解決したことだし、早く勉強終わらせちゃおう?」
オレはそう言って、問題集に目を落とす。
「え?あの……、ちょっと待ってください……」
「何?」
「さ、さっきのことなんですけれど……」
「さっきのことって、何?」
ついさっきの出来事のことをなんだから分からないわけはないのに、わざと知らない振りをして樹紀さんに訊き返す。
「も、基哉くん、分かっていて言ってます……?」
「分からないから訊いてるんだよー」
「はあ……」
樹紀さんは困ったような顔をしてオレを見てくる。
うわー。この顔、反則じゃないですか?オレ、我慢できなくなっちゃいますよ?
などと、バカなことを考えながらオレは樹紀さんが口を開くのを、ペンを回しながら待った。
「だから、さっき基哉くんが言った、『好き』についてなんですけど……」
「それで?」
「それでって……」
言われると……と、声を小さくして言う樹紀さん。
これ以上意地悪したらさすがに可哀相だよな?と思い、オレは口を開いた。
「ごめんね、樹紀さん。別にオレ、樹紀さんを困らせるつもりはなかったんだ。ただ、オレの気持ちを知っておいて欲しかったから」
「基哉くん…俺──」
「樹紀さんの返事は大体分かってるつもり。だから、今はまだ何も言わないで」
オレは樹紀さんが口を開くより早くそう言って、問題集に取りかかった。
「基哉くん……」
樹紀さんは何か言いたそうだったけれど、小さくため息をついてから他の問題集の採点を始めた。
「今日もありがとうございました、樹紀さん」
勉強が終わり、樹紀さんを玄関まで送る。
あの後、オレたちの間には終わりまで微妙な空気が流れていた。
まあ、それも当たり前。オレのせいでそんなになってしまったんだから、文句は言っちゃいけない。
樹紀さんは何度かオレに何かを言おうとしていたみたいだったけれど、オレはそれにわざと気づかない振りをしていた。
樹紀さんの話をちゃんと聞こうとは思っているんだけど、なんて言われるか想像がつかないせいで怖かったのだ。
受け入れてもらえるとは思っていない。拒否されるということは、ちゃんと頭では分かっているつもりだ。
それでも、直接あなたの口から聞くのが本当に怖かったんだ。
俺は靴を履く樹紀さんの背中を見ながら、声には出さずに口だけで「ごめんなさい」と言った。
「それじゃあ、また明後日……」
樹紀さんは俺の顔を見ずにそう言った。
それに少し胸の奥がチクリと痛んだけれど、仕方ないことなんだと思い、できるだけ元気な声で別れの挨拶をした。
言ってから少し不自然かなと思ったけれど、今はそれくらいが丁度いい。
玄関の扉が閉められてから、オレはしばらく扉を見つめていた。そしてその後、何ともいえない気持ちで部屋へと上がっていった。
樹紀さんに告白をしてしまい何だかやるせない気持ちでいたその次の次の日、つまり今日、その気持ちを吹き飛ばしてしまうような出来事が起こった。
「ありえない……」
オレは手元に返ってきた一枚の紙を食い入るように見ながら、思わず一言呟いた。
こんなこと過去に一度だって起きたことがなかった。だから尚更、オレは紙を穴が開いてしまうほど見つめたのだった。
「おい、何がありえないんだ?もしかして零点だったとか?」
オレの呟きを聞いた隣の席の朝田が、オレの紙…テストの答案用紙を覗き込みながら訊いてきた。
「……おー。確かにお前にしちゃありえないなー。でも、よかったじゃん」
まあ、よかったことはよかったけど、何かありえなさすぎて目が点だ。
今返ってきたのは、オレがもっとも苦手とする化学のテストだった。そしてオレは、そのテストで百点を取ったのだ。
今までテストというもので百点など一度も取ったことのないオレが、苦手な化学で百点を取るなんて奇跡が起きたとしか言いようがない。
……これも、樹紀さんのおかげだな。
「お、お前さ、百点取ったのが嬉しいからって、そういう風にニヤケるのはやめた方がいいぞ?」
「うるせー、黙れ」
無意識のうちにニヤケてしまっていたオレを見た朝田が、少し引き気味に言ってきたので、文句を言って朝田を軽くごついてやった。
「樹紀さん聞いて!てか、見て!」
オレは樹紀さんが部屋に入って来ると同時に、テンション高くそう言った。
「う!?え!?な、何ですか!?」
突然突きつけられた物に驚いた樹紀さんは、思い切り動揺しながらもオレの手から物を受け取って見る。
「これは……」
樹紀さんはオレが差し出したテストの答案用紙を見て、驚きと喜びの顔をした。
それも当たり前。今までにオレがこんな点数を取ったのを、樹紀さんも見たことはなかったのだから。
「すげえっしょ!?オレもびっくりだよ」
「俺も驚きました。でも、よかったです。これも基哉くんの日頃の努力の賜物ですね」
樹紀さんはオレに答案用紙を返しながら微笑むと、「頑張りましたね」と言ってくれた。
その樹紀さんの微笑みはすごくオレのツボにハマるもので、気まずい雰囲気だったということを忘れ、思わず抱きついてしまいたくなってしまった。
落ち着けオレ。今オレはそんなことできる立場じゃないんだ。
自分にそう言い聞かせると、テストを仕舞っていつもと同じようにテーブルに勉強道具を広げ始めた。
「百点取ったお祝いとか、何かして欲しいこととかありますか?」
樹紀さんもいつもと何ら変わらない様子で言いながら、テーブルを挟んでオレの反対側に腰を下ろした。
オレはそれを見て少しほっとしながら、樹紀さんの問いに答える。
「そうだなー。じゃあ、今日の勉強は無しってのは?」
「それは駄目です」
樹紀さんは速答する。
「無しにするのは駄目ですが、早めに終わらせることにしましょうか?」
「やりぃ!」
オレたちはいつもと同じ調子で話すと、勉強を始めた。
今日はこのままの雰囲気で終われたらいいな。と思っていたのだが、思った通りに行かないのがこの世の中である。
「それじゃあ、次の問題が終わったらお終いにしましょうか」
「はーい」
樹紀さんに言われオレは問題を解きながら返事をすると、最後の問題に取りかかり始めた。
カリカリと問題を解くオレのペンの音だけが部屋の中に響いていた時、不意に樹紀さんが口を開いた。
「……基哉くん」
「何?」
「それが終わったら、俺の話を…聞いてくれますか?」
そう言われた瞬間、オレの字を書く手が止まった。
もしかして、一昨日の返事?それともただの世間話?……前者の可能性の方が高いかな。
オレは止めていた手を再び動かし、「いいですよ」と、できるだけ軽めに答えた。
そして五分後、少しだけ時間をかけて問題を解き終わらせ勉強を終えたオレたちは、無言のまま向かい合って座っていた。
樹紀さんの目元はほんのり朱に染まっていて、その顔を見たオレは性懲りもなく胸が高鳴るのを感じた。
おそらく振られるだろうということは分かっているけれど、やっぱり、樹紀さんを好きなオレの気持ちは変わらないみたいだ。
オレは緊張を紛らわすために、意味もなく問題集をペラペラとめくっていた。
「あの、基哉くん。話っていうのは一昨日のことで……」
もじもじとしながら樹紀さんは言って、オレを真っ直ぐ見てきた。
オレは問題集から手を離し、オレを見てくる樹紀さんの目を見る。
どんな答えをもらえるかは分からないけれど、それがどんな答えだとしてもオレは受け入れる。
そう思っているからこそ、オレは何も言わずに樹紀さんが話すのを聞いていた。
「俺、あの後家に帰って基哉くんが言ってくれたことについて真剣に考えたんです。基哉くんはどんな気持ちで言ってくれたのか、俺はその基哉くんのことをどんな風に想っているのかって……」
樹紀さんはそこで言葉を切って、オレから視線を逸らさないまま、無意識にか自分の胸の辺りをギュッと掴んで少しだけ眉根を寄せた。
その表情はどこか困った風でもあり、オレの中の不安がいっそう募ったような感じがした。
カチカチと、机の上に置いてある時計の秒針の音が妙に大きく耳に入ってくる。
長いような短い沈黙の後、樹紀さんは胸を押さえる手に力を加え話を続けた。
「俺、結構前からおかしかったんです。基哉くんと話している時だけは、本心を何でも話すことができて、基哉くんが友人との出来事を、楽しそうに話している時は、なぜか胸がチクリと痛んでいて……。そして、ふとすると、いつも基哉くんのことを、考えてしまっている自分がいて……」
……それって?
オレは樹紀さんのその言葉に、ある期待を抱いてしまった。
もしかして、樹紀さんも──なんてことを。
……でも、まだ分からない。変な期待はしない方が傷は浅い。
そんな馬鹿みたいなことを考えながら、じっと先を続ける樹紀さんの目を見つめる。
「自分でも、よく分からなくて……。男なのに…男同士なのに、何でこんな、複雑な気持ちになってしまうんだろうって……。でも、昨日基哉くんに告白されて、やっと気づけたんです。……俺も…基哉くんが好きです……」
……え?
樹紀さんの言葉に、オレは自分の顔に熱が集まってくるような感じがしてきた。
まさか、本当に?うそ……、想像していたより遥かに嬉しい……。
先ほどまで聞こえていた時計の秒針の音はとっくに聞こえなくなっており、代わりにうるさいくらいになっている自分の心臓の音が聞こえていた。
「基哉…くん……?」
嬉しすぎて言葉を失っているオレに、樹紀さんが不安そうな表情で訊いてきた。
その表情はたまらないほど可愛くて、今まで抑えてきた感情が一気に溢れてきて、樹紀さんを抱きしめたくなってしまった。
だからー馬鹿正直に樹紀さんに訊ねる。
「樹紀さん、抱きしめてもいいですか?」
「──っ!?」
オレの真剣なその問いに、樹紀さんは一気に耳まで真っ赤に染めて、口元を手で覆った。
そんな照れる仕草も何とも言えなくて、オレは高鳴る心臓を沈めるように深呼吸してから樹紀さんの隣に移動し、もう一度訊く。
「抱きしめても…いいですか?」
「そ、そんなこと、訊かないでください……」
樹紀さんは小さく言うと、近くにいなかったら聞き取れるかどうか分からないような声の大きさで、「いいですよ……」と言ってくれた。
「樹紀さん!!」
オレは樹紀さんの答えを聞くやいなや、ガバッと樹紀さんに抱きついた。
夢にまで見た抱擁。抱きしめた腕から伝わってくる、樹紀さんの体温。
それと同時に、ぴったりとくっついている胸からは、樹紀さんの鼓動が伝わってくる。
樹紀さんの鼓動が分かるということは、必然的にオレの鼓動も伝わってしまっているということ。それはちょっと恥ずかしいけれど、樹紀さんの鼓動が伝わってくるのは凄く嬉しい。
「……ねえ、樹紀さん」
「はい」
「キスしてもいい?」
「──っ!?だ、だからそういうことは……」
樹紀さんはオレの言葉に驚いたらしく、自分とオレとの間を少しとって視線を下に向けた。
「樹紀さん、駄目?」
「だ、駄目ではないです、けれど……、そういうことは、訊かなく…ていいです……」
「でも、こういうのはやっぱり訊いてからじゃないと」
ね?とオレは言うと、そっと樹紀さんの顎に手をかけて少しだけ上を向かせた。
「樹紀さん、オレを見て……?」
オレに言われて、樹紀さんはゆっくりと下げていた視線を上に上げて、オレを見てくれた。
樹紀さんの目元は朱に染まっていて、その瞳は心なしか潤んでいるように見えた。
「……好き」
オレは一言呟くと、ゆっくりと樹紀さんの唇に自分のそれを近づけていった。
柔らかく重なる唇同士。
触れるだけの少し長めのキスをして、ゆっくりと距離をとる。
近い距離にある樹紀さんの顔。黒目がちな潤んだ瞳が、真っ直ぐオレを見つめてきてくれてる。
樹紀さんとキスができるなんて、実はオレってば夢を見てるんじゃないだろうか?
オレはそう思って、手を伸ばして樹紀さんの頬に触れた。
暖かい体温が手に伝わってくる。
──ああ、これは夢じゃなくて現実なんだ。
そう実感した途端、オレはもっと樹紀さんが欲しいという欲求にかられた。
「あー……」
「……どうしました?」
「もう一回キス、してもいい?今のだけじゃ…足りない……」
「も、基哉くん……」
オレの言葉に樹紀さんは目を見開いて驚くと、顔をなおも赤く染めて「俺も…足りないです……」と言ってくれた。
ヤバい!樹紀さん、可愛すぎる!
そのままの勢いでがっついていきそうになる自分を牽制して、樹紀さんに訊く。
「樹紀さんオレ、ちゃんとしたキスって初めてだから、下手くそかもしれないけど、それでもいい?」
「はい……。基哉くんのキスなら、何でも……」
照れながら言う樹紀さんのその言葉にかなりムラっときながら、オレは樹紀さんの後ろ頭に片手を回して、再度唇を重ねた。
最初はゆっくり、角度を変えながらの啄むようなキス。
だんだん息が荒くなってくる中、軽く樹紀さんの下唇を吸うと、樹紀さんの口から甘い吐息が漏れてきた。
オレはそれを聞いて、もっとこの声が聞きたい。と思い、樹紀さんの口腔に舌を侵入させた。
歯列を舌でなぞり、口腔内を犯していくように動かす。
「はっ……あっ」
上顎を舐めあげると、樹紀さんの口から甘い声が漏れてきた。
その反応が嬉しくて、自分の持っている知識を総動員させてキスをしていく。
「ん……っ」
樹紀さんの舌を自分のそれで絡めとり、軽く吸い上げると、樹紀さんは躰をぴくりと震わせ、オレの服の胸元をぎゅっと掴んだ。
オレの拙いキスのひとつひとつでも、樹紀さんはちゃんと反応してくれる。
その喜びを胸に感じながら、樹紀さんの下唇を舐めて唇を離す。
上気した頬、潤んだ瞳、キスのせいでしっとりと濡れている唇。今の樹紀さんは堪らなく色っぽい。
「樹紀さん……、オレのキス、どうでしたか?」
「……ど、どうって……?」
「合格点、もらえる?」
「…………」
「樹紀さん……?」
「……一度だけでは、よく分からないので、もう一度…してくれますか……?」
樹紀さんのその問いにオレは目を見開くと、次の瞬間には満面の笑みを浮かべて、
「喜んで。樹紀さんが望むなら、いつでもどこでも何度でも……」
樹紀さんの頬を両手で包み込み、唇を舐め、初めから深いキスをした。
「はっ…ん……」
それからオレたちは、しばらくの間キスを貪り続けていた。
「樹紀さん……」
オレは自分の頭を撫でてくれている樹紀さんの腕を掴んで、真っ直ぐ樹紀さんの瞳を見つめる。
「樹紀さんがいてくれてよかった」
「それは嬉しいです。……それで、合格祝いは何がいいですか?」
樹紀さんはにっこりと微笑みながらオレに訊いてきた。
それにオレは、しばらく樹紀さんの顔を見つめてから訊き返す。
「何でもいい?」
「はい。俺のできる範囲なら」
「……じゃあ、樹紀さんがリードして欲しいな」
「え……?」
オレの発言に目を丸くする樹紀さん。
これだけじゃちゃんと伝わってはいないよなと思い、オレは樹紀さんの耳元に口を近づけて低く囁くように言った。
「セックス、オレからじゃなくて樹紀さんからして欲しい」
「なっ……!?」
オレのあからさまな発言に顔を真っ赤に染めて、オレから少し距離をとる樹紀さん。
つき合って結構経つけれど、こういう時の樹紀さんの反応はいまだに初々しくてオレは好きだ。
「駄目?」
「いや…その……」
駄目って言うか……。と、口元を手で覆いながら目を泳がせて言う樹紀さん。
戸惑ってるんだ。まあ、それも当たり前だとは思うけれど。
樹紀さんからのキスはこれまでで何回かはあったけれど、セックスはすべてオレからだったもんな。
でも、今日くらいは樹紀さんにしてもらいたい。自分から動く樹紀さんは、どんな風になるのかが見てみたいんだ。
……オレ、なんか変態っぽいこと思ってる?でもしょうがないっしょ。まだオレだってヤりたい盛りのお年頃なんだから、その辺は大目に見てくださいってことで。
少し離れている樹紀さんに手を伸ばし、樹紀さんの右手を取り、自分の口元まで持ってきて手の甲にキスをして上目遣いに樹紀さんを見る。
「……どうしても、それじゃないと…駄目ですか?」
「樹紀さん、何でもいいって言った」
「い、言いましたけれど……」
困ったように言う樹紀さん。
これ以上困らせるのは何だか気が引けるかもと思い、違うことでもいいと言おうとしたのだが、それよりも早く樹紀さんが口を開いた。
「……途中で限界になったら…基哉くんに任せても、いいですか……?」
「え?」
「上手くできなくても…何も言わないで…くださいよ……」
樹紀さんはそう言うと、すっとオレの目の前まで来て頬に両手を添えると、ゆっくりとキスをしてきた。
えっ!?マジ!?嬉しい!
ぎこちなく口腔内を愛撫してくる樹紀さんの舌を感じながら、樹紀さんの腰をさり気なく引き寄せてキスを受ける。
頬にあった樹紀さんの手が、首から躰のラインをなぞるようにしながら下に降りていき、オレの上着に手をかけた。
唇を離し、オレの上着を脱がせようとする樹紀さん。
切なげなため息が口から漏れていて、朱に染まった目元と、潤んだ瞳と合わさりとても煽情的だ。
オレは樹紀さんの動きを少しでも見逃さないように、じっと樹紀さんを見つめる。
もしかしたら、今オレの顔には笑顔が浮かんでいるかもしれない。
オレの上着を脱がした樹紀さんは、オレの剥き出しになった上半身を見て一瞬だけ手を止めると、緊張で乾いてしまったらしい唇を舐めてからオレの上半身にそっと触れてきた。
少し冷たい樹紀さんの手。微妙に震えているのが伝わってくる。
「樹紀さん、手が震えてるけど、緊張してる?」
「あ、あたりまえです……」
「だよね。……オレも、樹紀さんに触れられるだけで、かなり緊張する」
ほら。と、樹紀さんの右手を取って自分の心臓の辺りに持ってくる。
「……本当ですね」
「意外って顔してるね?」
「だ、だって、基哉くんはいつも平気そうな感じがしていたので……」
「全然平気じゃないよ。樹紀さんのその色っぽい顔を見るだけで、オレはすごくドキドキしちゃんうだから」
わざと声のトーンを落として言うと、掴んでいた樹紀さんの手の平をぺろっと舐めた。
「ちょっ!」
それに樹紀さんはぴくりと肩を震わせて、戒めるようにオレを軽く睨んできた。
オレはそれに気づかない振りをして、今度は手首にキスをすると、
「あまり焦らさないで……」
と、樹紀さんの手を自分の下腹部の辺りに導いた。
それに合わせて視線を下にずらした樹紀さんは、すでに形を変えかけているオレのものに気づき、顔を真っ赤に染めた。
恐る恐るといった風に、オレのズボンに手をかける樹紀さん。オレはそれをじっと見ていた。
…ただこうやって受け身の体勢でいるだけって、何だか恥ずかしいものがあるかもしれない……。
ズボンのファスナーを下げ、下着に手をかけようとしている樹紀さんを見て、オレはそんな感想を抱いた。
「……も、基哉くん」
「何?」
「これから…どうすればいいですか……?」
下着をおろす手を止めて、困ったように眉根を寄せて樹紀さんが訊いてきた。
その顔、結構ぐっときます!
オレは樹紀さんを押し倒したくなる衝動を抑えると、少し考えるフリをしてわざと意地悪に訊き返す。
「そうだな……。樹紀さんは、手と口、どっちでしてくれる?」
「……基哉くんは…どっちが…いいですか……?」
「オレ?」
てっきり困惑するものだろうと思っていたのに、オレの質問に戸惑いもせずに訊いてくる樹紀さんに、オレは少し面食らってしまった。
そういう所はさすがは男って感じ?
オレはそう思うと、にっこりと微笑んで答えた。
「じゃあ、今日は手で」
「『今日は』ですか……」
オレの言葉を繰り返し苦笑混じりに言ってから、樹紀さんは神妙な面持ちで下着の中から勃ち始めているオレのものを取り出した。
ゆっくりと上下に手を動かす樹紀さん。ぎこちないその動きに、オレのものは段々と硬さを増していく。
初めて樹紀さんにしてもらっているということもあり、オレはもう息が上がり始めてきていた。
そんなオレをちらりと見た樹紀さんは、先走りで濡れている先端を親指でくっと押した。
「っ……」
その刺激にオレは眉を顰めると、指通りのいい樹紀さんの髪を梳くように触れた。
「基哉…くん。気持ち…いいですか……?」
「うん……。いつもより早くイっちゃいそう」
正直な感想を述べて、髪に触れていた手を項の方へするりと移動させた。
「……っ。もうそろそろいいよ」
「え?」
「今度は、自分のをやってみて?」
樹紀さんの顔を上に向けて、そっと唇にキスをしてから言う。
「じ、自分で…ですか……?」
「それは無理?」
「……いいえ。これは、基哉くんへの、お祝いですから……」
樹紀さんは律儀にそう言うと、自分の上着に手をかけて脱ぐ。そして、次にズボンに手を伸ばし、ゆっくりと膝までおろしてオレの足の間に膝立ちになる。
唇を一文字に結びながら下着にも手をかけ、それも膝までおろす。すると、下着の上からでも半勃ちになっていたのが分かっていた樹紀さんのものが、オレの目の前に露わになる。
「……あ、あまり…見ないでください……」
じっと食い入るように見つめていたオレに気づいた樹紀さんは、恥じらうようにそう言った。
「見ないなんてもったいないことはしないよ。樹紀さん、続けて?」
目の前にある白く引き締まっている躰に手を滑らせながら、樹紀さんに先を促す。
樹紀さんは小さな声で、「わかりました……」と言ってから、緩く勃ち上がっている自分のものに触れ、上下に扱き始めた。
「っ……、んっ」
切なげに眉根を寄せながら、触れたおかげで完全に勃ち上がった己を追い詰めていく樹紀さん。時折漏れる声が、何とも言えなく色っぽい。
オレはただ見ているだけなのに耐えきれなくなり、樹紀さんの胸の突起に触れた。
「んっ」
「ここ、触ってないのに硬くなってるよ?」
オレは言うと、樹紀さんの腰を引き寄せ、尖った突起をぺろっと舐めた。
「あっ……、基哉…くん……」
「手、止めちゃだめじゃん」
オレを押し剥がそうと肩を押してくる樹紀さんに、突起を口に含んだまま言い、樹紀さんの手を元あった場所に戻す。
「んっ…あっ……」
樹紀さんがゆるりと手を動かし始めたのを見て、胸を弄りながら空いている方の手で樹紀さんの尻の方へと手を伸ばした。
「あっ!基哉くん!?」
「ここ、ちゃんと解さないとでしょ?それとも自分でやる?」
樹紀さんの後孔付近を指で撫でながら、上にある樹紀さんの顔を見上げて訊く。
樹紀さんは唇を噛みしめて、撫でているだけのもどかしさに躰を捩りながら首を横に振った。
樹紀さんの尻に置いてあった手を、樹紀さんの口元に持っていき、噛みしめている唇を宥めるように指先でなぞりながら言う。
「樹紀さん、指、舐めて」
オレにそう言われ、樹紀さんは閉じていた口を開けてオレの指を舐め始めた。
舌先で指の形を確かめるかのように舐めあげてから、その指を口に含む。
ぴちゃぴちゃと、樹紀さんの唾液の音が静かな部屋の中に響く。
まるでフェラをするように指を舐める樹紀さんの眉間には皺が寄っていて、指を口に含むごとに樹紀さんの口からは切な気な息が漏れてくる。
「……何か、フェラされるよりもエロいかも……」
「なっ!?」
正直な感想を口にすると、樹紀さんは目を見開いてオレの指から口を離した。
驚いている樹紀さんを気にせず、樹紀さんが舐めてくれたおかげで十分に潤った指をスッと樹紀さんの後孔に持っていき、入り口のヒダの一枚一枚を確認するように撫でる。
「あっ!」
オレの不意の行動に、樹紀さんは背中を丸めてオレの肩口に顔を埋めた。
「どうしたの、樹紀さん?」
オレはわざとらしく訊ね、その間に後孔に指を一本侵入させる。
「んんっ……」
躰の中に入ってくる異物感に身を震わせ、樹紀さんは頭をオレの肩に擦りつけた。
「樹紀さん、手がお留守」
内壁を擦りあげながら、今まで樹紀さんの腰に当てていた手で、止まってしまっていた樹紀さんの手に触れ、先走りを垂らしている先端をなぞった。
「んぁ……」
その刺激に樹紀さんは身を仰け反らし、内壁で動いているオレの指を締めつけた。
「樹紀さんのここ、オレの指を飲み込んでいくんじゃないかってくらい、締めつけてきたよ?」
一本だった指を二本に増やし、バラバラに動かしながら言う。
「んっ…あっ……」
何か言いたそうに樹紀さんはオレを睨んでくるけれど、その口から出てくるのは快感から生まれる喘ぎ声だけだった。
「あっ……!」
内壁を蠢いている指の片方が一点を掠めた時、樹紀さんはいっそう高い声を出す。
「ここ、気持ちいい?」
「あっ……。そんな…こと…んっ……。訊かない、で……」
指を三本に増やして動かすと、その圧迫感のために苦しそうに息をしながら樹紀さんが答える。
しかし、樹紀さんのものはいっこうに衰えてはいないので、辛いだけではないということが分かった。
「あ、ん…ん……っ」
バラバラに動く指に合わせるように、段々と樹紀さんの腰が揺れてくる。
十分に解れてきたと思ったオレは、後孔から指を引き抜く。
「あっ……」
その物足りなさからか、樹紀さんは眉を寄せて切なげな表情でオレを見てきた。
「樹紀さん、膝をここについて」
オレは自分の両足の外側に手を置き、床を軽く叩いた。
樹紀さんはそれに従うように、オレの肩を支えにして両膝をオレの指定した場所につく。
「自分で、挿れてみて?」
オレに跨るような体勢になった樹紀さんに言う。
樹紀さんは一瞬息を呑んでから、ゆっくりと硬く勃ち上がっているオレのものに手を添えて、自らの後孔にあてがる。
「ゆっくり、ゆっくりね」
「はっ…んんっ……」
ゆっくりと腰を落としていく樹紀さん。オレのものが熱い後孔へと入っていく。
「……っ。きつい…な」
飲み込んでいくにつれ緊張で力の籠もっていく後孔に、オレも苦しくて息をつきながら、樹紀さんの躰から無駄な力を取るために、ゆるゆると樹紀さんのものを扱く。
「あ、あっ……!」
力の抜けた後孔は、体重が手伝ってオレを奥へ奥へと飲み込んでいった。
「んんっ……」
オレをすべて飲み込んだ樹紀さんは、オレの首に腕を回して圧迫感に耐えているようだった。
「樹紀さん、動けそう?」
「む、ムリ…そうです……」
樹紀さんは苦しそうに息を吐きながら言うと、「お願い…します……。動いて……」と、オレにお願いしてきた。
オレはそれに、今まで抑えていた何かがキレたように、最初から容赦なく樹紀さんを突き上げた。
「あ、あ、あっ……」
動きに合わせて、口から漏れ聞こえてくる甘い喘ぎ声。
その声がもっと聞きたくて、先走りをとろとろと零している樹紀さんのものに手を伸ばすと、動きに合わせるように弄った。
「ああっ!もう…基哉くん……」
前と後ろを同時に攻められた樹紀さんは、オレの首に回している腕に力を込めて限界を訴えてくる。
「オレも…もうイきそう……」
樹紀さんの締めつけに、オレも限界に近くなってきたので、最後の追い込みとばかりに激しく下から突き上げ攻め立てる。そして、弄っている樹紀さんのものに最後の刺激を与えた。
「あっ!ああっ……!」
「くっ……!」
樹紀さんがイった時の締めつけで、オレもほぼ同時に樹紀さんの中で果てた。
脱力し、オレにもたれ掛かる樹紀さんの背中をそっと撫でながら、樹紀さんの耳元で囁く。
「樹紀さん、大好き」
ずっとずっとこれからも──。
そんな気持ちを込めて言うオレに、樹紀さんは躰をゆっくりと起こし微笑みを浮かべながら、
「俺も……、愛しています」
「え──」
オレが驚きの声を上げる前に、樹紀さんがオレの唇を自分のそれで塞いだ。
キスの前に一瞬見えた樹紀さんの顔は真っ赤に染まっていて、照れているのが一目瞭然だった。だからこれは、照れ隠しのための行動ってことなんだろう。
……それより、樹紀さんに先を越されちゃったよ。オレだってまだ樹紀さんに『愛してる』って言ったことなかったのに。
オレは悔しく思いながら、離れていく樹紀さんの顔をじっと見つめた。
「な、何ですか?」
「何でもないでーす」
「え?何でちょっと拗ねているんですか!?」
「拗ねてなんかいない」
「拗ねてますよ」
「……樹紀さんのせい」
「ええ!?」
オレの言葉に目を見開いて驚く樹紀さん。
オレはそんな樹紀さんをわざと無視して、脱いでいた衣服を身につけ始めた。
「ち、ちょっと、基哉くん?」
まともに動揺している樹紀さんを見て、思わず笑いが出てしまう。
それを隠すように、樹紀さんに背を向けて上着を身につける。
「基哉くん!笑っているのは分かっていますよ!俺をからかったんですか!?」
樹紀さんはオレの背に怒鳴りながら、服を着始めたようだ。ごそごそと聞こえてくる衣擦れの音で分かった。
「あ、そうだ」
今突然あることを思いだし、オレは樹紀さんを振り返った。
「何ですか?」
「オレ、いつ引っ越しの準備すればいい?」
「そうですね……」
オレの質問に、上着を着ていた手を止めて考える樹紀さん。
『大学に合格したら、一緒に住みませんか?』
オレが大学を決めた時、樹紀さんからそんな提案があった。
樹紀さんの言葉が信じられなくて、そして嬉しすぎて、オレはしばらく言葉を失って樹紀さんを見つめていた。
『俺は一人暮らしだし、そこからなら大学が近いから、ここから通うよりは便利だと思うんですが……』
その提案を口にするのに、すごく勇気が必要だったんだろうな。目元を朱に染めながら言う樹紀さんを見て、オレはそう思った。
もちろんオレの答えは決まっている。
『住む!むしろお願いします!』
オレはそう言って、樹紀さんの両手を掴んで満面の笑みで言った。
そして今、見事大学合格を果たしたオレは、樹紀さんの家に一日でも早く引っ越したいと思っていたのだった。
「基哉くんの好きな日でいいですよ」
「じゃあ明日!」
「……基哉くんらしいですね」
「だめ?」
オレの決めた日に、樹紀さんは苦笑を浮かべながら言って、着かけていた上着を着た。
「駄目ではないですよ。それじゃあ、荷物を積めるための段ボールをもらいに行きますか?」
「はい!」
オレは元気よく頷くと、樹紀さんの手を握って一緒に部屋を後にする。
オレが高校に入っても、樹紀さんに家庭教師を続けていてもらっていた二つ目の理由は、お互いを愛し合っている恋人同士になったから。というものだった。
今までは“恋人”兼“家庭教師”だったけれど、今日からは“恋人”だけに切り替わるんだ。
【END】
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