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最後で最後



 この景色を、何度見たことか……。
 夕日の沈んでゆく様を、目を細めながら眺め、俺は物思いに耽っていた。
 あいつと約束した丘。……あいつと初めて出逢ったこの場所。
 あいつとつき合い始めて、もう三年という月日が流れたんだな。年のせいか、時間の流れが早く感じる……。
 俺は一人失笑しながら、上着のポケットから煙草のケースを取り出すと、一本中から出して銜えたそれに火をつける。深く息を吸い込み、肺一杯に煙をゆき渡らせ、それを一気にすべて吐き出す。空気と混ざり流れてゆく紫煙をぼんやりと眺めながら、あいつに思いを馳せていた。
 毎日顔を合わせているというのに、俺の頭の中はあいつのことで一杯だった。仕事をしていても、あいつは今何をしているのか、あいつは誰と会っているのか……。気にしすぎなほどあいつのことがに気になってしょうがない。
 この歳になると、恋愛に臆病になってしまうのだろうか。
 あいつとの関係は俺にとって、最後の恋愛だと思っている。もともと、恋愛に不器用だった俺に、チャンスを与えてくれたのはあいつの方だったのだ。あいつがいなければ、今の恋も存在はしていなかっただろう。あいつがいなかったら俺は、仕事に明け暮れ、一人寂しく過ごしていたのは明白だ。
 そんな自分自身が容易に想像がついてしまい、つい笑いがこみ上げてくる。
 短くなった煙草を携帯灰皿に押しつけ、火を完全に消す。苦い唾液を飲み込み、沈む夕日を見つめる。この夕日はいつまで眺めていても飽きなかった。そして、こうして一人で見ることにもすっかり慣れたものだ。
 いつも同じ風景に、季節ごとに変わる空気。寒い日もあれば、もちろん焼けつく暑さを感じる日もある。
 変わってゆく俺とは対照的に、決して変わらない夕日の色。
 ……なぜか安心する。
 こんなことを感じるとは、本当に歳を取ってしまったんだな。自分に流れた年月を思い返しながら、もう一本煙草を取り出して火をつけようとした時、背中からよく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「オレにも一本ちょうだい」
 聞こえた声に驚き、俺は目を見開きながら勢いよく後ろを振り返る。
「た、タカユキ? どうして?」
 今の時間はいつも眠っているはずの俺の恋人、タカユキに疑問を投げかける。
「んー? 起きたらアンタいなくて、もしかしたらここかなー? って思ったから、来てみた」
 したら見事にアンタいたし。タカユキは笑いながら言うと、俺の手から煙草ケースを取ると、一本取り出して火をつける。
「……煙草、やめたんじゃなかったのか?」
「うん、やめたよ? でも、今日は特別な日だし、オレはオレ自身を許す」
 ニコッと俺の大好きな笑顔で言うタカユキに、俺もつられて口元に笑みを浮かべた。
「……アンタ、いつもここ来たりしてんの?」
紫煙を吐き出しながら、タカユキが問いかけてくる。
「なぜだ?」
「オレがたまに早く目覚ますと、アンタいない時あるし、そん時の帰ってきたアンタの体、冷え切ってるから。さ」
 タカユキは俺の頬に触れ、「今も、つめてえ」目を細め、なぜか辛そうに顔を歪める。
「タカユキの手は、暖かいな」
「オレは、心が冷たいからな」
 自嘲的に笑うタカユキ。
 そんなことはないのに。タカユキは俺の知る人間の中で、一番暖かい心の持ち主なのに。
 そんな俺の心境を悟ったのか、タカユキは口を開いた。
「アンタはオレを過大評価しすぎなんだよ。オレの本性知ってるくせに、アンタは優しすぎる……」
「…………。恋は盲目?」
 銜えたまままだ火をつけていなかった煙草に火をつけながら、よくタカユキが口にする言葉を俺が言うと、タカユキは腹を抱えんばかりの勢いで笑い出した。
「あはははっ! まさにその通り! てか、アンタも言うようになったよな」
 長くなった灰を灰皿に入れながら、タカユキは、成長したよアンタ。とまだ笑っていた。
「お前のおかげさ」
「オレはアンタのよき教育者?」
「そんなものだ」
「マジでー? オレ、アンタよりずいぶん年下なのになー」
「精神的には、俺よりは上っぽいよ」
「何それ? オレ、そんなにおっさんぽいの?」
「たまに、そう思う」
「えー? オレはまだまだピチピチよ?」
 フィルターの近くまで吸った煙草を灰皿に入れながら、心外だー。とタカユキは笑う。
 俺には眩しいほどのタカユキの笑顔に、辺りは暗くなり始めているというのに俺は目を細める。
 いつまでもタカユキの笑顔を側で見ていたい。これからのタカユキの成長を、ずっと、ずっと側で……。
「そういえば、今日何の日か、覚えてる?」
 思い出したように訊いてくるタカユキに、俺は煙草の火を消すと、静かな口調で答えた。
「お前に、初めてあった日。そして、お前に襲われた日」
「ぶっ! 最後のは余計だって。事実だけど」
「……あれから、もう三年が経ったんだな。俺は、あの日から変わったよ」
「うん、そうだね。アンタはカッコ良くなった」
 タカユキは俺の肩に腕を回し、自分の方へ引き寄せる。それに逆らうこともせず、俺はタカユキに寄り添うように、俺よりも背の高い彼の肩に頭を乗せる。
「格好良くは、なっていないだろう。俺はくたびれたおっさんだ」
「でも、強くはなった」
「……確かに、な」
 タカユキに出逢う前の自分と今の自分を比較し、ふっと自嘲的な笑みを漏らす。
 あの時の俺は、周りの人間のことなどどうでもいいと思っていた。それに、自分自身のことにも全くと言っていいほどに興味を持っていなかった。それなのに今はどうだろう。ちゃんと周りを見ることもできるし、自分のこともちゃんと見ることもできる。
 全部、全部タカユキのおかげなのに、タカユキは頑としてそのことを認めることはなかった。
「強くなってカッコ良くもなった。それはアンタ自身の力で、だからな。そこんとこ忘れんなよ」
「お前がいたからと言うことも、忘れちゃいけないぞ」
「オレはお・ま・け。アンタ自身が変わろうとしなかったら今のアンタはいなかったんだから、オレはほとんど何にもしてないのと変わらないって」
 タカユキは肩に回した方の腕で俺の髪を優しく梳く。
 優しく慈しむように俺に触れるタカユキ。初めの頃からは想像もつかないタカユキの俺への接し方に、俺はタカユキも少なからず俺といることで変化を遂げているのではないのかと思うこともあった。
 俺も変わったし、タカユキも変わった。その変化が心地よく、そしてむず痒い。
 恋愛で己が変わっていくのは若い頃だけだと思っていたのに、性格が完全に構成されたこんな年になっても変化が訪れるなど思いもしなかった。
「愛している」
 思ったことをそのまま口に出すと、タカユキは珍しく照れたように笑った。そしてゆっくりと唇を合わせてくる。苦い味のするキス。それはあの日と同じ味で、俺は懐かしさからなのかなんなのか、目頭が熱くなってくるのを感じた。
 俺の方が年上だから、タカユキよりも先にいなくなってしまうが、できることならば最後までタカユキと一緒にいたい。
 最後の恋。この恋が、どうか永遠でありますように。そう、願わずにはいられない。



【END】